東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

自分にとって操体とは。〜個性(個の神性)を尊重し、調和を創造していくこと。・・・2


おはようございます。
操体といえば、橋本哲学、その「神人合一」の救いの生命観なくしては語れません。
操体の臨床的部分である、操体法の初期は橋本敬三先生が正体術からヒントを得て、治療法として行われていました。しかし、はたから見れば治療法でも、橋本先生自身は症状疾患に対する治療医学としてではなく、未病医学、つまり健康人が病気にならない為にはどうしたらよいのかという事が根幹にあったと感じられます。

    神その像の如くに人を創造りたまえり
 人は神の像なのである。神の像なる人間がなぜ病気をしたり死んだりせねばならないのか。これは医学の範囲外ではあるが、重要な関係がある。
 人が神性を自己に発見し、よくよくこれを思い、全く神人合一した状態においては、病も死も問題の外に置かれる。そして、その神性が発揮されればされるほど人は健康である。神に病や死がないと同様に、その像である人にも、その通りであるべきはずである。神と人とが同じ像であるとの信念から離れるほど完全な像から遠ざかってくるのは当然のことである。これを迷いというのであろう。迷いが深まるほど、人の生活は神性顕現から遠ざかる故に、健康を害する因子を積み蓄えることになる。像も歪んで来たらざるを得ないわけである。
 正しい衛生栄養療法が成り立ち、精神療法が発現するのも、みなこの帰一の法則にしたがってのことと思われる。
 さて理屈はぬきにしても、人が正しきにおれば容姿はおのずから端正となり、骨格は整い、筋肉も拘緊するところなく、内臓もその地位に安んじ、機能は互いに相調和して、健康である。
                   
  〜生体に歪みを正す 橋本敬三 論想集〜
                              力学的医学の構想 ―求学備忘録―より抜粋。 

 


 求学備忘録と題して、一番初めにこの文章をあてているあたりに、このことを努々忘れてはならない、と諭されている、と感じます。
 もともと人間一人一人は、絶対なる救いのイノチの元に、この世に生まれてきており、自在する個々の神性は絶対的である。だから元々は健康であり、健康に人生を全う出来るように生まれてきている。しかし、この世(有限界)は相対的であり、他と影響し合いながら共存共栄していかなければ、その存在を保てない世界となっている。その為、影響し合う中で、他と比較対照する価値観も芽生えてきてしまう。しかし、健康とは比較対照するものなのだろうか。例えば、先天的な難病と診断され、余命いくばくもないと知りながらも、生き生きと十分に自分の生を愉しみながら満足して生きている人もいる。逆に、どんなに肉体と環境に恵まれていても、不平不満を口にしながら、この世を去っていく人もいる。どちらが幸福な人生なのだろうか。健康や幸福というものは比較対照して判断するものではなく、自身で創造していくべきものなのではないだろうか。もともとは観世音ではなく観自在なのだ。自分は胎児として母親の腹の中に居た記憶は消失しているが、比較対照することなく純粋に意志と意識により、産まれる環境を選択し、祝福されたイノチとして、快の方向性を感じながら調和を重ねて、この肉体を形成してきた個性真理体だと思う。だから、「オギャー」と産声をあげ、産まれた後も、そのプロセスを尊重していかなければならない。そのプロセスとは積極的に快をききわけ、快に従うという生き方だ。積極的に快に従うには、「息、食、動、想」の生き方の自然法則に従順でなければならない。これは自分だけでなく、誰にも当てはまることだと思う。誰もが個性真理体として尊敬すべき存在だ。この世には、肉体をとおしての歩み方の努力に対する、相対的評価がついてまわるが、その価値観だけに捉われず、自身の神性を信じること。橋本先生の言葉を借りれば「病気なんかねぇ」なのだ。病気は程度の差こそあれ、皆、バランスの崩れだ。だから、バランスを崩さないように、生き方を、自在してある自然法則に合わせ、本来の自由(自分らしさ)を取り戻していければ良いのではないか。そして、お互いが尊重し合い、調和の元に共存共栄を目指していけばいいのだと思う。そして、満足して天寿を全うし、一番きもちのいいところ、つまり祖神の里に帰っていけば良いのだと思う。



友松 誠。