3年4組、5組合同同窓会。
私の母校は、九州の博多にある私立福岡東高校です。私は、その10期生。今から48年前になりますネ。クラスは4組。5組には中学校のポン友 Fuji Kasiroが在籍していた。彼とは中学時代三ヶ月同じクラス。そして席順は彼が私の前、常に成績表、二人ともドンジリの背比べの落ちこぼれもいいところであった。中学校は当中学校、一学年16クラス。一クラス50人の生徒が、箱詰めのミカン状態、団塊の世代は少年時代から、過激なバトルの中である。勉強嫌いな我々に、人生の光が差し込んでくるんだろうか、と思えた。学校が引ければ「唐人町」にあった、彼の家にたむろして寝食を共にする。彼のお袋さんは、あこがれの女性であった。イキで、しびれるようなタンカを切る。「○○生命」会社の、腕利きの保険セールスウーマンであった。顔をあわせるたびに「寛、ヒロシ」と、我が子のように呼び捨て、可愛がってくれた。中学の頃から「何々らしくせんばいかんよ」と、らしく、らしさをやかましく説教された。
当時のわが母校、東福岡高校は県内最大のボンクラ校だった。東福岡と名乗ると顔をそむけれらるような、ひどい高校、悪ガキボンクラの収容所のような感じだった。手の焼ける悪ガキがゴロゴロ集まっていた。私は担任の制止を振り切って、かなりレベルの高い県立高校(福岡中央高校)を受験したが、見事に落ちてしまった。どこいくあてもなく、東福岡に入ってしまった。しかし入学してみると、いごごちが良くなってしまった。良きにつけ悪きにつけ一人独りの個性を活かせることができたのだ。大学出たての若い先生がゴロゴロいてくれたのだ。私も生き返った思いで、三年間を過ごすことができた。しかし、相変わらず勉強嫌いは健在、興味がわかず、柔道部と美術部をかけもちで、ありあまる若いエネルギーを消化していた。喧嘩もしたが、とにかく悪ガキから目をつけられても負けたことはない。
小学校にあがる前から、赤帯のじいさんと黒帯の父から、しこたま柔道に励んでいたのだから、不良を相手にしていても、結局友達になってしまう。三浦には手をださんほうがいい、と一目おかれた存在だったようだ。
今の東福岡高は、県内唯一の進学校に生まれ変わってしまったようだ。生徒数も県内一のようです。
文武両立した男子校。私のように地方にいた者にとっては、母校の存在は大きな支えになっています。存在意識の変革を見事に成している母校だと思います。
そんな私も母校を卒業し、生まれ故郷の宮城に戻り、橋本敬三先生との運命のご縁を頂いて、只今の自分を迎えているのですから感謝、感謝の一言です。
昨年も同窓会に顔を出しました。48年も経ちますと誰が先生でで生徒なのか見境がつかづ、同級生のつもりで話していた相手が、あとで先生とわかり、いや失礼御免なさいいう一面もありで。。
団塊の世代の私達も、現役をしりぞいている連中が大半をしめる。昔のことを話せても、これから先の事が語れない。これからの人生が語れなくなってしまうのも、寂しいですね。「今までの人生は、これからの出発だ」なんてイキのいいことを言える仲間は少ないですからネ。
人生そのものが本業、これが面白い。
なかなかかっこいいでしょう。僕はそんな70代、80代、90代、100代まで迎えようとしています。
連塾の親分、松岡正剛氏が、これからの生き方について書いています。鞄の中には文房具があふれ、こよなく女性を愛しつづけ、一生タバコを吸い続けると。格好いいですね。