初期の操体法は、当時の高橋迪雄氏の行っていた正体術の影響を受けている。
現在も、たにぐち書店から高橋迪雄氏『正体術矯正法』現代語訳版があり、そのサブタイトルには『操体法の源流「正体術矯正法」』とある。
私の場合、操体法を学び始めた後、かなり経過してこの書に目を通したからなのかもしれないが、あまり似ているとは思えなかった。
実際に詠んでみるとわかるのだが、高橋迪雄氏の「正体術」と橋本敬三師の「操体法」の違い・類似性に関しては表紙以外に記載はないのである。
ではどうして、操体法の源流とサブタイトルがあるのだろうか。それは現在において「操体法」に知名度があるからなのだろう。
さて、橋本敬三師はいったい「正体術」のどこに興味を引かれたのであろうか。
患者に痛いことを我慢させて治療を行うよりも、痛いことをせず治療できるのであれば、それにこしたことはない。
さらに、からだの構造をどう捉えるか。じつは、からだの構造を家屋の構造に例え骨格を柱に見立てるののは「正体術」に記載してある。
また、患者自身にこちらから指示しつつ動かさせておき、ある程度のところまで来たら一気に脱力させることで臨床的変化を期待すること。
実際に行うことも、背臥位にて片方の下肢を伸ばすこと、両肘と踵を支えにしたまま臀部を持ち上げて落とす等、その動きだけを見るなら共通項となる。
つまり、道具や器具を使わず、実際に動きをとおしていることは共通しているのだ。
では実際に「正体術」にはなく、「操体法」ならではの特徴はなにか。
「正体術」は、患者の抱えている症状疾患に対して、身体のゆがみかたとの関連を臨床的にとらえて歪みに対処するのだが、
「操体法」では、はじめから患者の抱えている症状疾患には囚われない。
つまり、例えどのような状態でどんな症状疾患であったとしても、ボディーの歪みに注目しているのである。
「正体術」は、身体の歪みが発生することの理由には、各患者の重心の偏りかたに注目し、これによって歪みが発生しているとみているのだが、
「操体法」は、重心とのからだの変化に注目しつつ、一人の人間その本人の生き方の自然法則随順性を現時点での結果とすえる。
その結果とは、”生き方の自然法則”において、あくまで最低限・最小限の自己責任分担における結果をボディーの歪みとなる発生理由としている。
この”生き方の自然法則”とは、
「息」「食」「動」「想」に「環境」の要因を加え、それぞれがそれぞれと関わりあい、補い合ってバランスをとっているのだ。
バランス現象には”原始感覚”こそ大切なのであり、「快適感覚」がその鍵を握っているのだ。
それにはそれぞれに自然法則の範囲もあり、それに随順してはみ出ることなく、自然法則のなか有り難いと感じていれば十分に間に合っていられる。
それぞれの要因には専門家がいる、それぞれ自然の法則について大切なこと知っていて指導もしているプロがいる。
ただ、一つのことを説明し完璧にしたとしても、「食」ひとつで人間の生活は成り立っていないように、それぞれ”同時相関相補性”なのである。
故に橋本敬三師は、”生き方の自然法則”において「操体」では無知ではじまる自然なバランスの崩れをボディーの歪みとして、「動」に着目し臨床的に診ていった。
ここでもう一つの法則性を挙げており、それこそが「操体」における指導において最重要となっている”身体運動の法則”なのである。
からだのつかいかた。
からだのうごかしかた。
これは自然の法則に適う、そのためにルールがあり、そのための作法もある。
これをみにつけて、”からだ”で知っているからこそ、”自力自療”が成り立つのである。
先人の知恵をまとめ上げるだけでなく、ここまでわかりやすく、誰にでもできるように無理のないようにしたのが「操体法」といえる。
やはり「操体」は、自然法則における応用貢献を率先して成していった橋本敬三師の哲学思想を抜きには語れない。
そして今もその意志を継ぐ、直弟子の学びに触れてこそ「操体」を感じ取れるのである。
そしてどうやらその機会は、本人が望めばいつでも開かれているようだ。有り難いことである。
迷える子羊にも、飢えたオオカミにも適うようにここで早速ヒントを与えておこう。
まず、手始めに来月に開催される”秋季東京操体フォーラム”に参加してみると良いだろう。
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2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催