東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

p1*[岡村 郁生(おかむら いくお)『神性相続権』

四月が過ぎて都会へと旅立っていくあのひとよ・・・。

新学期が始まり、様々な方達は切り替わった生活を始められているのだな・・、
ソメイヨシノは緑の葉を茂らせ、八重桜も散り始めている今日この頃、
みなさま如何お過ごしでしょうか?
ハイ、有り難うございます。
今週を担当します岡村郁生を、宜しくお願いします。。

きょうは新しいことを始めるにあたって、謙虚という意味を考えてみたいのです。
東京操体フォーラムの三浦理事長は、
操体橋本敬三先生から、お借りしているのだからちゃんと学びなさい」
まあ、そのような意識であれば、自分勝手にこうしよう・これでいいやでは成り立ちませんね。

今までの自分に垢がついていたんじゃないか・・・捉え方の意識をシンプルにして学ぶ。
自分を中心に置かず、生かされていることを謙虚に意識していく。
そんなことを大切な、自分自身の”根っこ”としているのか・・・です。

閑話休題
さて、少年少女に薦めたくなるような名著を、日本では推薦図書といい、
米国ではこの選書をグレイトブックスというそうです。

私の場合、初めに読んだ橋本敬三師の著(『万病を治す妙療法』農文協)を思い出しました。
学生諸氏にもわかりやすいように書かれたという、この著書。
そういえば、読むのは勿論、音読で聴いて味わえるような・・・、ハイ!読み方も工夫ですね。

著者である中世ドイツのキリスト教神学者マイスターエックハルト氏の著から、
『マイスターエックハルトと裸の男の子』の一節を書き出してみます。

エックハルト説教集 (岩波文庫)

エックハルト説教集 (岩波文庫)

マイスターエックハルト氏は、
「自分が感じているもの、あるいは経験しているものすべてを、
 あたかも事前に選択したかのように生きることによって、
真の自由が得られる」とも語っています。
(以下抜粋)
マイスターエックハルトは 一人の美しい裸の男の子と出会った。
そこで師はこの子に どこから来たのかたずねた。 

男の子は答えた。
「神のところからやってきた」 

「どこに神を置いてきたのかい?」 
「徳のある心の内に」

「どこに行きたいの?」
「神のところへ」 

「神はどこで見つけるの?」
「すべての被造物から離れたところ」

「君はいったいだれ?」
「王」 

「君の王国はどこ?」
「心の内」 

「だれかにふみこまれないように気をつけなさい」
「そうするよ」

そこで師は この男の子を彼の部屋に連れて行き、語った。

「どれでもいいから好きな上着をとりなさい」 
「そんなことをしたら王ではなくなってしまう」

そう語って男の子は姿をかき消した。
それは神自身であった。
神はわずかの間であったが、マイスター・エックハルトと共に過ごしたのであった
(以上抜粋)

・・・いかがでしょう、何とも言い難い感覚を味わえませんか?
私には、感覚の訪れのような、一種独特の読後感があります。
多分、解読しなくてもその感覚でいいのでしょう。

私自身思うに「心」というのは、なんとも曖昧なものなんだな、と感じています。
だからこそ、曖昧である意味を愉しむ”間”もあるようです。
ですから、
キーワードは「からだにききわけて」です!(今週はこれでイキマス)

橋本敬三師は、シンプルにこのように語っています。
「現象以前の救いの悟りを得たものは、人生の至福を得たものである」と。

「からだ」に必要なこともシンプルです。
「きもちよさを探してランデブ〜しようぜ〜」なんてあり得ません!
「からだにききわけて」いるのは、「快適感覚」ですネ。

そして、「快適感覚」をききわけ、味わっている”間”とは、まさに妙味。
また、「快適感覚」を味わった後の脱力後の爽快感とは、
なんと言ってよいのか、言葉にしがたい”有り難い”味わいそのものです。

ハイ!・・・では改めて、今週からのお付き合いを宜しくお願い申し上げます。
 
2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致しますヨ。