今週は日下が担当で、タイトルは「ヨーガと操体論」である。主に意識と快感覚の親近性にテーマを絞ってみた。また、ここでいうヨーガとは、いわゆるヨーガ体操ともいえる「ハタ・ヨーガ」ではなく、「ラージャ・ヨーガ」に焦点をあてているので違和感を覚える人がいるかもしれない。
私は「操体院」という名称をつけた操体の施術院をやっている。それとは別にインド正統派ヨーガの指導もしており、私自身、ヨーガを40年間、実践している。そこでまず、この「ヨーガ」という語について、一言申し上げたい。我が国において当初、ヨーガは「ヨガ」と呼ばれていた。現在はサンスクリットの発音どおりに「ヨーガ」と表記されるようになった。それには、実は言葉の上だけの問題ではなく、ヨーガが一部の好事家のものから、真に心の平安と身体の健康を求める人々のものとなったことを意味している。
古代インドの聖者たちが深い思索と宗教体験の結果として編み出したのがヨーガの体系である。しかし我が国の高度成長期にあって、ビジネスと結びついたヨーガはインドの古典に直接触れることもなく、主として健康を保つ目的から「ヨガ」として実践する人々が増えていくこととなった。その原因の一つに、インド哲学や仏教学研究の方法が明治時代以降にヨーロッパから逆輸入されたことにある。
つまり、インド哲学や宗教はその実践性、すなわち認識と体験の一致に特色があるにもかかわらず、ヨーロッパ流の研究は、それをあくまでも客観的研究対象としてとらえてしまう。ゆえにこのような傾向は、ヨーガを自分自身のものとして取り組むことにブレーキをかけてしまう結果となった。これは実に不幸な、かつ無益なことであったと言うほかはない。いわゆるヨガ実践者の中には、名称等にこだわる必要はなく、ヨガでもヨーガでもどちらでもよいなどと言っている人を見かける。
しかし、「ヨーガ」という語は、本来正しくはヨーガであってヨガではない。ヨーガの経典や仏教経典のほとんどは、インドの伝統的古典語のサンスクリット、梵語で書かれている。サンスクリット語のヨーガという語は、その文法上「YOGA」の「O」は必ず長母音で発音されなければならない。従って、これを学び実践するためにはまず、「ヨーガ」と正しく発音しなければならないのである。操体においても「ソータイ」や「ソオタイ」ではなく、「ソウタイ」が正しい表記であるのと同じことだ。
さてヨーガと操体の関わりについて、操体の目的が「快適感覚」につきることは、紛れもない事実としてすでにとらえられている。そしてこの快適感覚というのは、たった今、ここで、感じているという、この瞬間のことを言っている。このように快適感覚は心が意識的になっているということであるが、生の目的とは本来、意識的になることだ。それは単に目的であるばかりではない。生の進化それ自体が、ますます意識的なるということである。
意識的になるというのは人生において幸福を求めることでもある。何も苦痛を味わうために一生を過ごすのではない。では幸福というのは端的に幸せを感じることであって、その感覚は「心地よさ」「気もちよさ」に結論できる。広義の意味では欲求が満たされたときの快楽感もこれに含まれる。が、本能的な性欲や食欲、それに名誉欲や所有欲などは一過性のものである。いずれ欲を募らせるばかりで不変的なものにはなり得ない。なぜなら、これらはすべて外界のことがらであり、自己の内側に関わるものではないからだ。
ただし、快楽感のうち、性、SEXに関してはタントラのように特殊な技法をもって俗界の快楽ではなく、歓喜という快の極みに達することができるものも確かにある。しかし、外界との関わりにおいて快を味わうタントラは極めて例外的なものだ。内なる自己に分け入って「快」が結果的に訪れるようになるには、瞑想によって体験されうるものである。その方法がヨーガ体系に見ることができる。それと同じ「快」が操体も共有していたのをあらためて確信するものだ。
生の進化とはますます意識的になることだが、意識というのは常に「他」指向である。我々は何かを、いつも何か「他」という対象を意識している。ヨーガの意図は、どんな対象もなくただ意識だけがとどまるような次元に進化してゆくことだ。ヨーガは純粋意識に向かって進化してゆく方法、つまり、あるものを意識するのではなく、意識そのものになる方法なのである。
あるものを意識するときには、我々は自分が意識していることを自覚してはいない。我々の意識はあるものに焦点が絞られている。意識そのものの源泉には我々の注意は向けられてはいない。だがヨーガではその両方を意識するよう努力する。意識の対象と意識の源泉の両方を。意識というのは二方向に向かう矢になる。我々は客体である対象を自覚しなければならないし、同時に主体も自覚しなければならない。意識はこのような二方向に向かう矢の橋になる必要がある。主体は見失われてはならない。客体に、焦点が絞られているときに、主体が忘れられてはならないのである。
明日につづく