東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

ヨーガと操体論(二日目)

 純粋意識を目的とするヨーガは、意識の対象と意識の源泉の両方を意識する。そしてそれができたなら、次に主体と客体の両方を落として、ただ意識そのものになること。この純粋意識こそヨーガの目指すものである。何もヨーガがなくても、人間はますます意識が増大する方向に成長してはいる。だが、ヨーガはこの意識の進化にさらに何かを加え、何かしら貢献している。それは多くのものを変え、多くのものを変容させる。その最初の変容は二方向に向かう覚醒意識であり、何か他のものを意識するまさにその瞬間に、自分自身をも覚えているということである

 そのジレンマは、我々はある対象を意識しているか、それとも無意識であるかのどちらかだ。外界にどんな対処もなければ、我々は眠ってしまう。意識するためには何か対象が必要になる。何にも従事することがなくなったら我々は眠くなる。どうしても意識する対象が必要だ。逆にあまり意識する対象が多くなりすぎたら、我々は一種の不眠を覚えるかもしれない。あまりにも考え事に取り憑かれている人が寝つけないのはそのためである。そういう人には対象が取り憑きつづけている。想念が憑きまとい続ける。そういう人は無意識になれない。数々の想念が注意を惹き続ける。

 そしてこのジレンマが我々の生きている実情なのだとヨーガは教える。新しい対象が出てくると、意識する度合いが増してくる。新しいものを渇望し、新しいものに憧れるのはそのためだ。だから古いものは何でも退屈になる。しばらくある対象を相手にして過ごすと、やがてそれを意識しなくなってくる。我々はもうすでにその対象を受け入れている。もう気にとめる必要はない。そこで、退屈になってくる。

 たとえば、長年連れ添った夫婦はお互いに空気のような存在だというが、それはもう長いこと互いに意識しないできているかも知れない。亭主は妻がいるのはあたりまえだと思っている。亭主はもう妻の顔など見ない。眼の色さえ想い出せない。ほんとうに何年もの間、気にもとめていなかった。そして妻が死んで初めて、そういう女性がいたことにあらためて気づくという始末である。だからこそ、世の女房族や亭主族は倦怠期を迎えることができるのだ。

 このように注意を呼び起こさないような対象は、どんなものでも退屈を生み出す。新しい対象が何もないときでも、確かに醒めていることのできる心が必要だ。何かの対象にしがらみをもっていると、新しいものにしばられるようになる。対象にまったくしばられていない、対象を超えた意識が必要だ。そうしたとき、我々は本当の自由を手に入れる。好きなときに寝入り、好きなときに目覚められる。自分の助けになるような対象など必要としないで自由になる。対象の世界から本当に自由になることができる。

 対象という客体を超える瞬間、同時に主体をも超える。なぜなら、その二つは互いにつながって存在しているというよりも、主体性と客体性は同じひとつのものの両極であるからだ。一方に客体があるとき、自己は主体。だが、客体なくして醒めていられたら、そこにはどんな主体も、どんな自己もない。客体が消えて、その客体なくして意識することができるとき、ただの意識だけのとき、主体もまた消え失せる。主体も客体も両方とも消え失せ、ただ意識だけが、何ものにもとらわれない無限の意識だけが残る。そうなったら境界などなくなってしまう。主体と客体のいずれも境界ではなくなる。これがヨーガであり、このとき、快適感を覚えるようになる。これをタントラ仏教では「無上の歓喜」と伝承しているが、操体でも快に従い、快に委ねる、というように同じ「快」を核にしているのは、決して偶然なことではない。