東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

ヨーガと操体論(四日目)

 仏陀はよくこういっていたと言う、「瞑想中は自己など存在しない」と。なぜなら自己に対する覚醒、いわゆる自覚そのものが、自己を他の一切のものから引き離してしまうからだと。自己がまだいる限り、客体も依然として存在する。ジャンポール・サルトル実存主義において「われ在り」という、だが、「われ」は完全な孤独の内では存在できない。「われ」は外界との関係で存在する。つまり、「われ」というのは「関係性」なのである。そうなったら、「われ在り」という自己とはただ外部のものとつながって存在している自己の内部であるにすぎないことになる。が、その外部がなければ内部も消える。そのときには、単純な、自然発生的な意識だけが残る。これがヨーガの目的、ヨーガの意味である。そして快の正体でもある。

 ヨーガとは自分を主体と客体の境界から解放する科学なのだ。その境界から解放されない限り、今までの東洋人のように現状のままで満足して退屈してしまい、社会が寝ぼけて死んだようになってしまう。あるいは今までの西洋人のようにたえず新しい対象に頼って、目新しいものを追い求め、社会が不眠症気味になってしまうかのどちらかである。このように東洋の不均衡か、西洋の不均衡のいずれかに陥ってしまうのだ。

 もし我々が心の平和とか、静寂、眠りといった、そういった充足感が欲しいのなら、たえず同じ対象にかかずらっていればいいのである。変化など求めない方がいい。そうしたら、我々は安心してよく眠れる。が、精神的なものなど何もない。我々は多くのものを失う。まず成長しようとする衝動そのものが失われる。冒険の衝動そのものが失われてしまう。実際、我々は植物人間のようになりかけて、沈滞してしまうだろう。

 もし我々がこれを変えようとしたら、自己は動的にはなるが、同時に落ち着きを失う。動的にはなっても、同時に緊張する。動的にはなるが、気違いじみてくる。新しいものを見つけはじめ、新しいものを尋ねはじめる。が、我々は竜巻に巻き込まれたようなものだ。新しいことが起こりはじめはしても、自己は失われる。客観性を失うと、あまりにも主観的に、夢想的になる。逆にあまり客体である対象にとらわれると、主観性を失う。この状況は両方とも不均衡だ。東洋は前者を試み、西洋は後者を試みてきた。

 そして現在では東洋は西洋的に、西洋は東洋的になりつつある。東洋では、西洋流の技術や科学、それに合理主義が魅力になっている。アインシュタインアリストテレスやらラッセルといった人たちが、東洋人の心をつかんでいる。一方、西洋では仏陀や禅や太極拳、それにヨーガが重要な意味を帯びてきている。このように東洋は共産主義マルクス主義、そして唯物論を志向する。そして西洋人はといえば、瞑想、霊性、法悦といった意識の拡大という観点から物事を考え出している。これは自分たちの荷物を取り代えているにすぎない。少しの間、それは光り輝き、照らすことはあっても、またすぐに同じナンセンスが始まるのは確実なことだ。

 東洋も西洋もひとつの道で失敗した。両方とも心の一方の部分を否定しようとしたからである。その部分は両方とも超越されなければならない。心とはひとつの全体性であり、我々はそれを全面的に超越できるか、できないかのどちらかだ。一方の部分を否定し続けたら、その否定された部分は必ず復讐に転ずる。

 こうなったら「快感覚」というのは、とてもほど遠い存在になる。その否定された部分は、ずっとそこにあって、ますます力をたくわえ続ける、そうなったら、そう、ただ報復するためだけにそこに在る。だから言えることは我々が一方だけを受け入れてきた部分が成功を収めたときこそ、実は失敗のときなのだ。成功ほどの失敗はない。どんな部分的な成功も、さらにひどい失敗に陥ることになる。そして得たものは意識されなくなり、失ったものが必ず自覚されるようになる。

 失ったもの、「不在」というのはより強く感じられるものだ。たとえば歯が一本抜けたとき、舌は歯がないことに気づき、その歯のところへ行こうとする。舌はこれまでは絶対にそこへ行ったためしがない。が、もうどうにも止まらない。舌はその歯を感じとろうと、たえずその空っぽのところをまさぐる。それと同じように、心の一部が成功をおさめた時には、我々はもう一方の部分の失敗に気づくようになる。在りえたかもしれないが実際にはないその部分に。

 主体にも客体にも否定することがなければ、自分は意識に上っている心ではないと気づく。そうなったら意識に上っている心というのは単に一部分にすぎないということに気づくことができる。心はその両方であり、心のより大きな部分である「無意識」のなかへ跳びこんでゆくことが可能になる。

 無意識へは計算づくの心で跳びこむことなどできない。計算は意識に上っている方の心がすることであって、その部分の心は無意識の中へ跳びこむことなど決して許しはしない。きっと、こう警告するだろう、「気違いになってしまうぞ。そんなことは今すぐやめろ!」。 このように意識はいつも無意識を恐れている。というのも、無意識のエネルギーが浮かび上がってきたら、意識の中の明晰なものはみんな吹きとばされてしまからだ。しかし、この無意識の中にこそ「快」が隠れている。だから快を呼び込もうとする操体では、心の無意識とつながっているカラダの無意識に問いかけることを重視するのである。

 そしてカラダの無意識に問いかけるとは、感覚がとても敏感になっているということだ。そのときには、言葉を使う必要はない、いや言葉を使ってはならない。ただ感じるだけでいい。ただ見守るだけでいい。そうすれば、すぐにもある認識に至ることができるだろう。それは生そのものだという、大いなる認識だ。この認識と言うのは、生のエネルギーが何かということについて、敏感になるということを意味している。本当の意味において自分自身の存在に気づいてゆくということだ。
明日につづく