ヨーガとは、全体的な人間科学のことであって、単なる宗教とは違う。ヨーガは全体的な人間科学、すべての部分の全体的な超越である。そのすべての部分を超越したとき、我々は「全体」になる。全体というのは、単なる諸部分の総計ではない。そういった機械的なものではなく、それ以上のもの。それは芸術的なものである。
たとえば一篇の詩を数々の単語に分解することはできても、その単語は意味をなさなくなる。詩という全体があって、はじめてそれは語群以上のものになる。それにはそれ自体の独自性がある。そこには言葉と同じように言葉の間の空間がある。ときには、その行間の方が単語よりも深い意味を持つ。実際には語られなかったことがその行間から語られることがある。そしてそれがあらゆる部分を超越したときにだけ、一篇の詩文が「詩」になる。それを分解し、分析したりしようものなら、部分だけしかつかめない。そして肝心の超越的な精華は失われてしまう。
このように意識というのも全体性に属している。だからある部分をひとつ否定することで、我々は何かを失ってしまう。ほんとうに大切だった何かを。そして何も得られない。得るものがあるとすれば、極端なものだけだ。極端なものというのはみな一種の病気だ。極端なものはすべて内側の病気になる。そして我々は混乱しつづける。内なるアナーキ状態が生じるのである。ヨーガは内なるアナーキを超越する科学。我々の意識を超越する科学。我々の意識を統合する科学だ。部分を超越してはじめて我々は全体になれる。
それゆえヨーガは宗教でも科学でもない。あるいはそれは両方でもある。さらにそれら両方を超越していると言ってもいい。いうならば、ヨーガは科学的宗教、あるいは宗教的科学とも呼称できる。だからこそヨーガはどんな宗教に属している人にも用いられるのだ。それはどんなタイプの心の人にでも用いられる。それどころか完全に無神論志向の人でもヨーガは否定できない。
「意識」によってヨーガが意味するのは、完全なる生気、活気、活力へと向かうひとつの動きである。我々は決して完全には生気にあふれて生きていない。生気にあふれているときもあれば、生気のないときもある。幸福に感じるのは生気溌刺としているときだけであって、我々のみなぎる生気に対するひとつの解釈にほかならない。が、より生気があふれだすときには、我々は必ず幸せに感じるものである。
我々は、悲しみを引き起こすものがあるとき、悲しくなりはじめ、幸せをもたらすようなものがあるとき、幸せを感じはじめる。しかしそこに何もなければ、自分自身を感じることは決してない。このように何もない、我々の完全なる意識の中で、自己だけが存在しているというその感覚、その状態こそ肉体ではなくソウル、「霊魂」なのである。それは母親の子宮のなかにいるときの至福に満ちた瞬間、どんな心配もなく、どんな緊張もなく、完全にくつろいだ心の状態にある至福に満ちた存在なのかもしれない。それは我々が意識的には知らなかった、深い、無意識の感情かもしれない。そしてその感情が我々を自分の奥深くにある何かへと向かわすために駆りたてているのだ。
数年前に操体の講習で、渦状波という皮膚に感覚をききわける操法を、三浦寛師より私は受けたことがある。このとき、はじめて、ただ感じるという感覚を経験したのであるが、それと同時にからだは今、何を要求しているのか、というトータルな至福感覚に気づくことができた。この経験から言えることは、感じることができる心だけが、本当の欲求が何であるかの感覚と方向を与えることができるということだった。
明日につづく