ヨーガは合理的であって同時に非合理的なものである。そのヨーガの方法論は全く合理的だが、その方法論を通じて非合理の神秘のなかへと深く参入してゆく。そのプロセスはすべて非常に合理的で科学的、論理的であると言える。ただしヨーガが合理的に進むのは、非合理的なるものへと跳躍するためにのみそうなのである。最後には非合理的になる定めなのだ。
理解不可能なもの、つまり合理的なものは源泉となることはできない。なぜならそれは有限だからである。その源泉は我々より広大なものでなければならない。我々が生まれ出た源泉、あらゆるものが生じた源泉、森羅万象が生じた源泉、そしてまた、落ちていってふたたび消え去るような源泉、それは合理的なものをしのいでいなければならない。顕現されたものは、当然にその源泉ほどは広大ではない。
合理的精神には、顕現しているものを感じ、理解することはできる。けれども、その背後には顕現されざるものが存在しているのである。だからヨーガは合理的であれなどとは主張しない。ヨーガはこう言う、「非合理的なものを考えつくということは合理的だ」、「実際、非合理の限界を考えつくのは合理的というものだ」と。
真実の真正な心は、常に理性の限界に気づいている。常に理性はどこかでジ・エンドになるということを知っている。真に合理的な人なら、非合理が感じられる地点にまでどうしたって辿りつく。もし理性的に究極に向かって進んだら、我々はその限界を感じとるようになる。
アインシュタインもヴィトゲンシュタインもそれを感じとった。ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、かって書かれた書物のなかで最も合理的なもののひとつであり、彼自身は最も合理主義的な精神のひとりであった。ヴィトゲンシュタインは、非常に論理的な方法で、実に論理的なやり方で、存在について語っている。ヴィトゲンシュタインの表現、言葉、語法、そのすべてが合理的である。
だが同時にヴィトゲンシュタインはこう言っている。「世の中には、何ひとつそれについて言えないようなものがある」。「そこを越えると何も言えなくなるような地点がある」。「そして私はそれに関しては沈黙を守らざるを得ない」と。それから、ヴィトゲンシュタインはこう書き記す。「語ることができないものは、語るべきではない」と。このメッセージとともにヴィトゲンシュタインの全体系は崩れ落ちた! ヴィトゲンシュタインは、生と存在のすべてについて合理的たらんとしていた。そのあげくに突然ある地点でヴィトゲンシュタインはこう言うのだ、「もはや、この地点を越えると、何ひとつ言えなくなる」。
これは何かを、非常に重大な何かを言おうとしてのことだ。そこには何かがある。が、それについては何ひとつ語れない。もう定義づけができない地点に来たのである。そして、そこでは一切の定義づけがあっさりと崩れ落ちる。真に論理的な心は必ずこの地点に達する。このように証明されざるものこそが源泉なのである。全体というのは部分では証明されえない。源泉は決して証明されえないものだ。
たとえば、あなたの右手はあなたが実在しているということの証明にはならない。それを試すのも愚かなことだ。が、あなたの右手が自らを完全にマスターしたなら、それでもう十二分だ。手が自らを知るや否や、それは自分以上のものに根ざし、たえず自分以上のものと一体なのだということを知る。その「自分より以上もの」があるからこそ、あなたの右手もそこにあるのだ。もしあなたが死ねば、あなたの右手も死ぬ。それはただあなたが在るために生きていただけだった。そして全体は依然として証明されないままである。知られているのはいつも部分だけなのだ。が、それを感じることならできる。
右手があるからといって、あなたがいるという証明にはならない。が、右手があなたを感じることならできる。右手自身の内部へ深く入ってゆくことならできる。そしてあらゆる深みに達したなら、それがあなた自身なのだ。操体の動診はこれをやってのける可能性をもつ。この深みに達するための淵に立っている。単なるからだの感覚だけをききわけているだけではない。それではもったいなすぎる。
そして操体においても快を証明できないゆえに、快を信ずる。信ずることができないからこそ、快の存在を信ずるのである。これが真の快の感じ方だ。「不可能なるがゆえにわれ信ず」とは、仮に可能だとしたら、その時には信ずる必要などない。それはただの概念、ありふれた概念になってしまう。それは知的なものではなく、概念などでもない。それは不可能なものへの飛躍だ。このように理性の淵に立ってはじめて、我々は快の神秘へと飛躍できる。理性をその論理上の極限にまで伸長させてはじめて、我々は快へと飛躍できるのだ。
明日につづく