瞑想というのは常に受動的である。その本質そのものからして受動的なものだ。瞑想はその本性そのものが無為だから、能動的ではありえない。何かを行おうものなら、まさにその行動がことの全体をかき乱してしまう。我々の行動そのもの、活動という能動性そのものがことをかき乱すもとになるのである。
この無為とは瞑想のことである。ただし、「無為は瞑想だ」と言っても、我々が何もしなくていいということではない。その無為を達成するためにすら、いろいろなことを行わなければならない。だがその行為は行動ではないが、瞑想には及ばない。その行為は瞑想ではないのである。それは単なる踏み石、単なる跳躍台、単なる方便だ。行為はすべて瞑想に向かうためのただの跳躍台であって、瞑想ではない。
我々は行為から進んで、今ちょうど、扉のところ、階段口のところにいるとする。その扉とは無為のこと。だが、その無為の心境に達するには、たくさんやらなければならないことがある。ただし、その行為を瞑想と混同してはいけない、それはただの方便なのだから、それを体系化などしてはいけない。
我々の生命エネルギーは相反して働き、生はひとつの弁証法として存在している。それは単一運動ではなく、一本の河のように流れているわけではない。それは弁証法的なものであって、ひとつひとつの動きにともない、生はそれぞれの逆もまたつくり出すことになる。そしてその逆との葛藤を通じて前に進んでゆく。それぞれの新しい動きにともなって、その動きの主題は対照とその逆をも生む。そしてこれがたゆまなく続けられる。
ひとつのことがその逆の対照をもたらし、融合してひとつの統合を生み出す。そしてそれがまた新しくひとつの主題となる。と、またその逆の対照があらわれる。弁証法的な動きということで意味するのは、それは単純な直線的な動きではないということである。それは自分自身を分裂させ、逆のものを生み出し、ふたたびその逆に出会う、そしてまた分裂して逆を生み出してゆく動きのことだ。
それとまったく同じことが瞑想にもあてはまる。なぜなら、瞑想は生の中で最も深遠なものだから。その心の動きはカラダにもあてはまる。たとえば病んでいるカラダに「ただくつろいでごらん」と言ってもそれは無理な話だ。というのも患者は何をやっていいかわからないでいる。くつろぐことを教える似非療法家たちはこう言いつづけている「ただくつろぎなさい。なにもやってはいけない。ただ緊張をほぐしなさい。ただ脱力しなさい」と。そうしたら一体何をすればいい? ただ横たわることはできるが、そんなことはくつろぎではない。依然として病はそっくり残っている。
そして今度は新たな葛藤が生じる。そう、くつろぐのだという葛藤が・・・・・・。いわば「おまけ」が追加されたという次第だ。「くつろげ」というおまけが付け加えられたというだけで、カラダの病はそっくりそこにある。今度はこれまでの緊張すべてに加えて、新しい緊張が追加されている。それどころかあらゆる人のなかで最も緊張している人になってしまう。自分に対してただくつろげ、ただ脱力せよと、言い聞かせてみても、生は直線的な流れではない、そんなことは不可能だ。弁証法的な流れを理解していないと自然治癒能力は働かないのである。
正統派の操体では、「ただくつろげ!」、「ただ脱力せよ!」とは決して誘導しない。まず動診において緊張させることから始まる。次にその緊張からフィードバックという行為に入ってゆくと、突然、患者はくつろぎ始めるのを感じる。なぜなら今度は生命エネルギーが逆のものを生み出すことになるからだ。緊張の頂点に全エネルギーが費やされると、この緊張は無限に続けることはできない。それは消え去らなければならない。そしてまもなくそれは消えはじめる。それを見守っている。すると生命エネルギーはおのずとくつろいでくる。
さあ、醒めて、このくつろぎが始まるのを見るとしよう。両手、両足、カラダの各筋肉、カラダの各神経が患者自身、何をするでもなく、ただ素直にくつろいでゆく。患者自身がくつろがせようと何かやっているわけではない。カラダ自身がくつろいでゆくのだ。患者は身体じゅうのさまざまな箇所がくつろいでゆくのを感じはじめる。全身がくつろいでいる部分の集合になる。ただ醒めているだけでいい。このくつろぎこそ「最快適感」、あるいは「快の極み」といわれるものだ。そしてこの醒めているという覚醒は瞑想だ。それは無為! 患者は何をやっているわけでもない。なぜなら醒めるということは行為ではないのだから。それは人間の本性、存在に生来そなわっている本質そのものである。