東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

時空と瞑想(6日目)

昨日の続き
ありふれた空間を非凡な洞察力で眺めることは、砂漠のなかで宝石を発見するようなものだ。瞑想の一環として行為することに取り組んでゆくことができれば、日常的にくり返される問題は単なる問題ではなく、直観の源に変わってゆくことができる。いかなるものも平凡だからという理由で拒絶しないし、何かを特に神聖視することもない、日常生活にあるすべての物と素材は瞑想に生かされる。しかし、行為するというのは創造性からの逃避にもなりうる。行為によって自然な自発性がまったく育たないようになったら、創造性への恐れが現われて、手近な先入観に引っ張られてゆくのである。
落ち込んでいたり、何かにおびえたり、あるいは事態がうまく進展しそうになかったりすると、さっそく煙草を吸いだしたり、酒を飲んだりするものだ。そうやって気分を紛らそうとする。根底にある問題に取り組みたくないものだから刹那的に一時的な快楽にしがみつこうとする。部屋の空間におびえ、何もない隅っこにもびくついている。壁に何もなければ、絵を掛けたり壁掛けを吊るしたりする。壁が一杯になればなるほど気分も楽になるからである。
だが、本当の行為とは、実際的に動くこと、大地と直接関わってゆくことである。大地との関係性が実感されなければ、状況は混沌としてくる。自分の一挙一動を感じることには精神的な意義がある。行為は演じることではない。実際に感じなければならない。大地を感じ、大地と自分の関係性を感じとらなければならないのである。
我が国における茶道の伝統は、大地との触れ合いを示す優れた作法である。茶道は茶碗、茶巾、茶筅、お茶、沸騰した湯を慎重に用意することから始まる。茶がたてられると、客は物を正しく扱うという感覚をもちながら、それをじっくり味わいつつ飲み干す。茶の湯には茶碗の清め方、かたづけ方、作法に沿った終わり方も含まれていて、後片付けも始まりと同じように大切にされている。このように行為中の自覚は、きわめて重要である。それは坐禅を組む時の自覚、空間の広がりを体験するときの跳躍と同種類のものかも知れない。これは大地と空間を同時に感じていることを意味する。空間を感じられなければ大地も感じることができない。その空間に対する感覚が深まれば、大地に対する感覚もまた深まってゆくことになる。
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、よくこう言っていたという「大地は木々を通して星に届こうと、星々を超えようとしている。それは未知に届こうとする、超越したものに届こうとする大地の手なのだ。そして私もまた大地の一部であり、大地の手なのだ 」と。
操体もからだの感覚と直接関わってゆくことであり、快適感覚が実感されなければならない。動診も演じることではない。実際に感じとらなければならない。
明日に続く



東京操体フォーラムin 京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。