昨日の続き
操体の気もちよさというその感覚でいろいろな疾患は大いに改善されるものである。ところが我々大人にとってその感覚を味わうのは実のところ、そんなに簡単なことではない。子ども達のようにあるがままでいたら、意識はあらゆる感覚に対して開いている。子ども達の意識の中には一切の感覚が含まれており、たえず多くのものが入ってくる。だから子ども達はあれほどまでに揺れ動いて不安定になっている。子どもの心はいまだ何の条件付けもされていないひとつの流体、感覚の流れだ。子ども達は何にも焦点を合わせようとしない、子ども達の意識はまわり中に開いている。あらゆるものが入ってきて、どんなものも除外されない、子ども達はとても感覚的に生きている。
しかし、このような心を持ち続けては生き延びられない。子ども達はやがて心の焦点を定めることによって狭め、集中することを習い覚えて、大人に成長してゆくのである。何故なら何事にも集中しなければ人生にうまく対処してゆけないからであり、生はそれを要求してくる。大人になるというのは心が集中できるようになることだ。心の集中というのは生きるために、生きのび存在していくために必須のものである。
ところが心が集中できるようになると、感じるということが少なくなってくる。感覚は心の焦点を合わせないで、起こっていることすべてを感じていることだ。人間社会で生きていくうえには心を狭め、ある特別なひとつのものだけに焦点を合わせ、集中することによって、より専門家に、より熟練者に、よりジェネラリストにならなければならない。
だがしかし、ことの成りゆきは、知識ばかりが増えて、その対象はますます限定されてゆくことになる。それでも心を狭めることは生存するのに必要なことだ、実利的な生活は必要に違いない。が、決してそれがすべてではない、心を狭めることは生きながらえるための手段ではあるが、生のための手段ではない。
このような狭められた心は、からだにも影響を及ぼさずにはおかない。狭められた心はやがてからだの生体系に緊張が生まれ、それが種々疾患を発症させるのである。そして治療家たちは 「緊張をほぐしなさい」 、 「くつろぎなさい」 と言い、また療術家たちもその緊張を無理やりほぐそうとする。だがそんなことでくつろぎを得るのは不可能だ! 操体では、逆にまず患者の全身を緊張させる、そして動診において極限まで緊張が及ぶ。そうすれば突然、からだはくつろぎはじめるのを感じる。今度は生命エネルギーが逆のものを生み出し、おのずとくつろいでくる。両手両足、からだのあらゆる筋肉、からだのあらゆる神経が、ただ素直にくつろいでゆく。からだ自身がくつろいでゆくのである。からだ中のさまざまな個所がくつろいでゆくのを感じはじめる。それは全身がくつろいでいる部分の集合になってゆく、そう快感覚とともに。
明日に続く
2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定