昨日の続き
今日は 「聞く」 ことについて考えてみたい。
操体ではよく 「からだの声を聞く」 と言うが、これは広義の意味合いで使っているものだ。正確に言うと、 「見る」 というのは少なくとも眼を開くという動作を伴い、またその対象物に焦点を合わせるために、その関係する筋肉を動かす必要がある。物理的にまた文法的にも動詞として使うことに誤りはない。しかし 「聞く」 ということになると、動作といった物理的変化を伴うものではないのだ。文法的には 「聞く」 という動詞で正しいかも知れないが、正確には何かをするといったからだの行動を伴うわけではないのである。ただ耳を傾けるだけで事足りる。耳を傾けるというのは、することではない。何もしなくていいのである、何故なら耳はいつも開いているからだ。聞くと言うのは 「物理的なもの」 と 「精神的なもの」 とをつなぐ役目をしてくれる神秘的な器官の働きである。それに共感を持って耳を傾けることで意識は 「考える」 ことから 「感じる」 ことに質が変わってくる。
本当は 「からだの声を聞く」 のではなく、 「からだの声に耳を傾ける」 と言うのが正確な言い方である。このようにからだの声に耳を傾けるのは、意識を自分に向けることであり、そうすることで、からだに気づくようになってくる。別の言い方をすると、分離していた 「心」 と 「からだ」 が統合されるその瞬間が気づきである。
そもそも 「聞く」 というのは古代より心と密接な関係があったことをうかがい知ることができる。古代の絵文字である 「ヒエログリフ」 は生命を意味する 「♀」 が二つとその横に 「牛の耳の絵文字」 二つを並べて 「生きているものたち」 を表している。古代のエジプト人はこういった絵文字を通して、まさに 「生命は耳から入ってくる」 と言うことを伝えているのである。耳は塞いでも自身の内側から聴こえてくる音がある。それこそが心の叫びであり、自分の声を聞いて欲しいと訴えかけているのだ。その心の声を聞くことが自分に気づくことなのである。人間にとって快適感覚というのは、豊かで心地良い音、味、香り、景色などを五感で感じているときに、からだと心は喜び、生命が躍動するのである。こういった感覚は感覚器官から取り込まれ、脳で処理されて活性化されるのであるが、同時に感覚器官も豊かになってくる。その中でも耳は特に柔軟な器官であり、より鋭敏に耳を澄ますことができるようになる。
臨床には脈を聴いて健康状態を診察するいわゆる 「脈診」 というものがあり、これは緊張や興奮が脈に表れてそれを感じとる方法である。 「脈診二十年」 といって脈を一人前に聴くにはそれぐらい長年の熟練が必要だということだ。が、聴くことだけで終わってはいけない。その脈を患者自身が気づくように、からだの声をきかせることで、生理状態に変化を起こし、自然のリズムへ戻していくことが可能になる。これには操体の 「渦状波」 が十分にその役割を果たしてくれるだろう。このように脈を通して、心を落ち着かせ、結果的にからだも癒されてくることになる。
明日に続く
2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定