東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

快適感覚(六日目)

昨日の続き
快適な感覚は意識的な身体環境内においてのみ感じるものであるから、当然にして睡眠中のような無意識的なレベレでは起こりえないのがふつうである。それでは意識の中にあって静止した状態で 「自力で快適感覚」 を得ることは果たして可能なのであろうか? それを確かめるのに、人間の 「姿勢」 と 「感覚」 の関係について考察を加えるものである。
操体の動診において四肢末端の動きが全身に連動することで快適感覚を味わうことができるとするならば、身体をもつ者は自己の全身を必然的存在として、渾然たる一体者でなくてはならない。このようにからだというのは全一的な存在であることから、身体をもつ者は自己の体躯の姿勢においても、自己内完結の相を示さなくてはいけない。つまり、からだを持っている我々は自分の外の他者に依存することがないだけでなく、自分の内に他者を抱くことのないような姿勢をとるべきである。
他者は自分にとって偶然的存在であり、椅子座位のように自己の存在が椅子という物体的他者を媒介としなければならないから、自身は個別的存在の相を脱することができない。現在における我が国の生活様式が欧米化したものの、椅子座位に何となく落ち着かなさを感じ、依然として畳の上に座る生活様式を捨てきれないのは、分一的、個別的存在に堕することを望まない日本人の風格の、自然の発露であろう。椅子座位や胡座位にあっては、脚が胴身から遊離して、その存在が偶然的となり全身が一体とはならない。臥位は眠るための姿勢であるから、自主的な身体姿勢を保ち、おのずから帰入する往相であり、本質は 「静」 である。また立位は独立の箇として立つ環相であって、重心の座をいちじるしく高く保ち、 「動」 への構えをもっている。 「不動」 の姿勢といえども動の起点または途中の意味なしに、立位は考えられない、まさに立位の本質は 「動」 である。
これに反して、日本式の座位は 「静」 であるとともに常に 「動」 の起点であり往相と環相とを併せたものを含んでいる。日本式の座位はまさしく人間の姿勢の基本形として見られるべきである。日本式の座位は 「人間」 の本質を発揮し、人間の品格を具現する最も論理的な座位である。最も論理的な座位であるからこそ、論理の低次の顕現である生理の上からも、人間の姿勢の基準となすべき最も合理的な姿勢であると言えよう。これこそが静止状態での 「自力快適感覚」 の根本要素といえるのではないだろうか。
日本式座位とはどのようなものなのか、垂直に立つ姿勢から、その構えを崩さずにピタリと着座すれば、そのまま正しい日本式座位となる。日本式座位の詳細は明日、最終日に譲ることとする。
明日に続く



2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定