おはようございます。
昨日は、昭和53年に書かれた操体の創始者、橋本敬三先生の動診と題した文書より
整復は形の上から考えるなかれ、動かして診ることだ。制限されて苦痛な動きは、体の方で止めてくれと言っているのだ。気持ちのいいように、痛い方から痛くない方向に柔らかく誘導し、最快適な時点で急速に脱力させると、元におさまる。
という文面をとり上げました。
この頃の動診は、操体法の初期の第一分析(D1)でしたが、操者(施術者)は「整える」という観点ではなく、被験者のからだの感覚を重視しながら動かして診るという操体法の特徴が端的に表されている。
一方的な物事の進め方ではなく、からだの声に耳を傾けるという「調える」「調整」の姿勢から「調和」へ導き、臨床効果を上げるという事なのです。
そして、調和と時間、空間の係わりは無視できない。つまり、その時良くなっただけではなく、その良い状態がキープできる、続けていけばそれ以上により良い状態となるような効果が伴わなければならない。
上記の第一分析の動診も、橋本先生の御存命中にD1からD1’へと更に改良されていった。
D1’では「急速に脱力させる」ではなく、脱力もからだの要求感覚に委ねるように変更されたが、それだけ整復も含め整えるという観点から脱し、快適感覚により全体的な調和に導く事が大事であり、元におさまるという結果は同じでも、内容はその後の経過も順調となるよう改良されたという事。
そして、D2つまり第2分析へとシフトアップされていくわけだが、そのきっかけは橋本先生の「気持ちよさをききわければいいんだ、気持ちよさで治るのだからな」という言葉だったと聞いている。
先の第一分析の動診の文章に「気持ちのいいように」とあるが、それから4,5年たった後の「気持ちよさをききわければいいんだ」という言葉、この2つは一見同じように感じる人もいるだろうが、まるで意味合いが違っている。
「気持ちいいように」というのは被験者本人の意思に向けた言葉であり、あくまで本人が主となり、本人のからだは対象外となっている。
しかし「気持ちよさをききわける」となると、本人の意思よりも本人のからだが主になり、本人はからだの感覚に従動的な立場となる。
より高次元の自然良能作用の発現に向けた調和への問いかけとなっているという事であり、ここから更なるシフトアップした診断法、更には今までの常識を覆す進化した操体へとつながっていく。