東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

整よりも調

おはようございます。

先日、操体の創始者、橋本敬三先生 の動診と題した文書を読み返していましたが、

その中の文章にはこうあります。

整復は形の上から考えるなかれ、動かして診ることだ。制限されて苦痛な動きは、体の方で止めてくれと言っているのだ。気持ちのいいように、痛い方から痛くない方向に柔らかく誘導し、最快適な時点で急速に脱力させると、元におさまる。 


これは昭和53年に書かれたものだが、操体法の初期の第一分析(D1)の特徴が端的に表されていると思う。

 

整復という言葉が用いられているが、この言葉自体、創始者の文献を読むと昭和30年代以前にはよく用いられていたが、昭和50年代には徐々に用いられなくなっていく。

創始者も昭和10年代頃は、人体の基礎を成すのは骨格であるから、その力学的変位や配列異常、歪みを正せば病は良くなり、その為に痛い方から痛くない方へ動かして整えていくという考え方があった様子。

初期の初期の頃は、鍼こい、灸こい、骨接ぎこいと様々な療法から学んでいるが、その影響も多分にあると思う。

 

しかし、長い年月の研鑽を重ねるうち、形から判断するのではなく、その形を構成している動きの内容の方が大事だというふうに変わっていった。

動きの内容の良し悪し、それは何で決まるかといったら、単に形からみた局所のメカニズムではなく、全体が調和して重力をはじめとする自然環境へ適応することであり、その動きには呼吸、飲食、想念も相関している。

頭で考えると、どんどん複雑になっていくが、そこには自然の摂理や法則というものが自在しており、そこに伸るか反るかであり、実はシンプルなものだという事を、臨床実践をつうじて確信していったのだと感じる。

 

そこに伸るか反るかの判断は、気持ちがいいか悪いかの識別にあり、法則違反をして自然の摂理に反ってしまえば気持ちが悪いし、自然の摂理に同調すれが気持ちが良く環境適応が可能となり、調和が密になって人智を超えた自然良能作用も発揮されてくるという事。

 

確か創始者の言葉に「調和を探る」というのがあったと思うが、これも気持ちいいという感覚を羅針盤として天然自然との調和を探るという事であり、その調和を探るなかに自然の摂理の学びや、それとリンクしながらより高い次元の調和を実現するための臨床の発展があるのです。

「整」よりも「調」であり、操体の歴史には整えるという発想が、まだ操体の名称すらない初期の頃にはあった。それを踏まえてもっと臨床効果、健康回復、維持、増進への貢献を高める為の調和を重視してきたのが操体、操体法だと感じます。