東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「ミタテ」の考察②

 昨日は 「見立て」 を考察していく中で子どもたちの 「意識」 に注目した。 今日もその意識についての一考を続ける。 

 

 子どもたちは、あるがままでいたら、何にも焦点を合わせようとしない。 子どもたちの意識というものは、まわり中に開いている。 あらゆるものが入ってきて、どんなものも除外されない。 まさに子どもはあらゆる感覚に対して、とてもオープンである。

 

 その子どもたちの意識の中には一切の感覚が含まれている。 そして、なんと多くのものが入ってくることか! 子どもがあれほどに揺れ動いて不安定なのはそのためだ。 子どもの未だ条件づけられていない心はひとつの流体、感覚の流れである。

 

 しかし、子どもたちはこうしたタイプの心ではとても生き延びていくことができない。 子どもたちはどうやって心を狭め、集中するのかということを習い覚えてゆかなければならない。 そして、やがて心を狭めることを身につける。 それは、その瞬間、ある特別なひとつのものだけを意識し、同時にその他の多くのものに対しては無意識になってゆくということだ。

 

 心が狭められれば狭められるほど成功の可能性も増える。 すると、我々は専門家に、熟練者になることができる。 だがことの全体は、知識ばかりが増えてその対象はますます限定されてゆくことになる。 心を狭めることは生存するのに必要なことであり、誰もそれに責任はない。 

 

 今の生存のままでは確かに心を狭めることは必要だ。 だが狭めるだけでは本当に充分ではない。 確かに実利的ではあるが、ただ生き存らえるだけでは充分ではない。 単に実利的であるということだけでは充分とは言えないのである。 

 

 だから、実利的になったら、意識は狭められ、我々は心の本来的に有能なはずの部分を否定することになってしまう。 それは我々の心全体を使ってはいないということであり、 そのごく小さな部分であるほんの一部を使っているだけだ。 そして、残り、大部分を占める残りの部分は心の無意識が占めている。

 

 事実、意識と無意識の間には境界線など存在していない。 これらは二つの別々の心ではない。 「意識する心」 とは狭めるプロセスで使われてきた方の部分を意味し、もう一方、「無意識の心」 とはそのプロセスで打ち捨てられ、黙殺され、閉ざされてきた部分を指している。 これが分裂をつくり、亀裂を生じさせてしまう。 

 

 そうなると、我々の心のより大きな方の部分が、自分と疎遠になってくる。 そして自己自身から疎外されることにもなる。 それは我々自身の全体性に対して異邦人になってしまい、 瞑想的な直感を 「達成」 するということからますます遠ざかってしまうのである。