昨日のつづき
廓庵の描いたあのような牛の図は無意識の言語と言われている。 それは視覚化の言語でもある。 また、それは子どもたちの言語である。 子どもたちは絵でものを考える。 それだからこそ、子どものために絵本ができた。 そして、子どもの本に大人たちはたくさんの絵、色つきの絵を入れなくてはならない。
その本文はごく短く、絵の方が圧倒的に大きい。 なぜならば、それが子どもたちに読み方を学ばせる唯一の方法だったからだ。 子どもたちは絵を通してしか学べない。 子どもたちのような未開の心は絵で考えるようになっている。
そして、中国語のような言語が最も古いと考えられているのはそのためである。 それが象形文字だから、そうした言語にはアルファベットがない。 中国語や日本語や韓国語には、アルファベットというものがない。 あるのは何千という象形の絵だけ。 欧米人が中国語や日本語を学ぶのがとても大変なのはそのせいである。
アルファベットというのは物事をとても単純にしてくれる。 中国語や日本語はそれぞれの文字に、一つの象形絵が存在している。 では一体、世の中にはどれだけの象形絵があるのだろうか?
たとえば日本語で屋根や家を表わすウカンムリの下に一人の女が入って 「安」、やすらかという字になる。 女性が家にいるというのは 「安心」 を示している。 だが、それはただの暗示的なもの、一つのヒントにすぎない。
子どもたちは絵で、そして夢でものを考える。 何を考えるにしても、まず子どもらはそれを視覚化しなくてはならない。 そして、子どもたちと同じように未開地の人たちもみなそれをする。 それは無意識の言語だからなのである。
我々も子どもたちや未開地の人たちも依然として同じようにそうしている。 我々がどんなに言語に巧みでも、論理的議論にいかに熟練したとしても、依然として夜には、我々は絵で夢を見ている。 それは決して言葉で夢を見ない! 我々が未開人であればあるほど絵はカラフルになる。 そして、文明化されればされるほど、我々の絵はだんだんとカラフルではなくなり、それは、次第しだいにモノクロになってゆく。
このような十牛図に対する分析考も、廓庵のメッセージであると言えないだろうか。
明日につづく