東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「ミタテ」の考察③

 三日目も 「見立て」 が起こる心の自然発生的な何かを考察するプロセスにおいて、意識と無意識をさらに深く掘り下げてみる。 

 

 人生において実利的に生きるために心を狭めることは必要ではある。 だが、それでは心の内の小さい部分だけが自分の自己とみなされて、残りの部分はまったく失われてしまう。  しかし、この残りの無意識の部分は使われざる潜在性、用いざれらる可能性、経験されざる冒険として常に存在している。 この無意識の潜在的な、使われざる心は、いつも意識する心と一戦交えているのだ。 だから、いつも心の内部に葛藤があるのはそのためである。 

 

 誰もが、この無意識と有意識の間の亀裂のために葛藤している。 だが、この潜在性、この無意識が花開くことを許されてはじめて実存の喜びを感じることができる。  さもなければ感じることなどできようはずがない。 それは 「見立て」 という多次元の感覚であり、より瞑想的な直感を生み出すことができるということだ。  

 

 潜在的可能性をもったその主な部分が満たされないまま残ると、我々の人生は欲求不満に陥ってしまう。 我々が実利を追えば追うほど満たされなくなり、至福を感じなくなってくるのも頷けることだ。 そのアプローチが実利的であればあるほど、つまり、生の上でビジネスが増えれば増えるほど、生きるということが少なくなり、エクスタシーはますます感じられなくなってくる。 心の実利的な世界で役立つようにはできていない潜在的可能性をもった部分は、今までずっと否定されてきたのである。

 

 人生とはひとつのセレモニーだと言える。 決して実利的な次元ではない。 実利的な心が心全体だと思わないことだ。 その残りのより大きな部分・・・・・・、心全体がそのために犠牲にされるようなことがあってはならない。 実利的な心はあくまでもひとつの手段にすぎない、決してそれを目的にしないことが重要だ。 

 

 もう一方の、残りのより大きな部分、可能性を潜在させた部分が目的になるのが本当の姿である。 それこそが見立て的アプローチと言えるものだ。 知性、つまり心を狭めることは生き存らえるための手段ではあるが、生のための手段では決してない。 「生存」 と 「生」 はまったく違っている別ものだ。 

 

 生存とは物質的な世界に欠くべからずもの、しかし、目的は常に潜在的可能性の開花である。 それは自分という存在によってもたらされた可能性のすべての開花に行き着く。 そのときには、いやそのときこそはじめて我々は 「見立て」 という多次元の感覚によって、より瞑想的な直感を生み出すことができるのである。