東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

感じる(6日目)

昨日の続き
自分のからだとの深い沈黙の感受性から愛が生まれたら、そして誰かを好きになったら、もし誰かを本当に愛していたら、我々はふりをして見せかける必要はなくなる。それが真実だったらあるがままの自分になれる。そして仮面を脱いでくつろぐことができる。逆に愛していないときには、仮面をかぶる必要がある。そこに他人がいるから、たえず緊張している。我々は見せかけなければならないので、いつも警戒していなければならない。攻撃的であるか、防衛的であるか、そのいずれかでなければならない。それは闘いであり、戦闘なのだ。これではくつろげるはずがない。愛の幸福はくつろぎの至福でもある。誰かを愛しているとき、我々はくつろぎを感じ、ありのままの自分でいられる。「あるがまま」という意味において裸になれる。自分のことで気をもむ必要などないし、ふりを見せかける必要もない。我々は開いていて、殻が壊れやすくなっている。そのような開放的になるということでくつろぎ安らいでいることができる。
もし、そのように愛することができたら、それと同じことが自分のからだにも起こる。我々はくつろぎ、自分のからだを大事にする。自分自身のからだと恋に落ちることが起こっても不思議はない。それはナルシスト的なことでもない。それこそ精神性への第一歩なのである。操体の動きがからだから始まるのはそのためだ。それも末端から始まる。胴体から動くのは重すぎる、四肢の局所でもまだ重く感じる。四肢末端から動きを始めることによって、心が拡がり、意識が拡がる。全身が打ち震え、活気づいた存在になる。今や全身への連動がより楽になる。今ではからだ全体が感覚に導かれたひとつの動きになっている。考えることが邪魔することはより少なくなる。我々は再び生き生きとなる。もう頭の条件づけはそこにはない。からだは頭ほど条件づけられてはいない。頭は条件づけられているが、からだは、まだ自然の一部なのである。
しかし、宗教はすべてからだに反対している。からだとともにあっては、感覚とともにあっては、頭やその条件づけは失われるからだ。それだから、宗教はSEXを恐れてきたのである。SEXにあっては、条件づけしようとする頭が失われる。そして我々はふたたび大きい生命圏の一部となることができ、その生命圏と一体になれる。だから頭は常にSEXに反対する。SEXが日常生活において頭に反対する唯一のものだからだ。我々はすべてのものをコントロールしてきたが、ひとつだけコントロールされずじまいで残っているものがある。それがSEXなのだ。だからこそ頭はSEXに強く反対する。それがからだと頭をつなぐ唯一残された鎖であるからだ。もしSEXが完全に否定されたら、我々は全面的に頭脳的になり、まったく肉体ではなくなってしまう。SEXに対する恐怖は基本的に肉体に対する恐怖でもある。というのも、SEXにあっては全身が生き生きとなるからだ。SEXがからだを乗っ取るが早いか、頭はうしろへと押しやられてしまう。もう、頭はそこにない。呼吸がそれに取って代わるのだ。呼吸は激しくなり、生気にあふれてくる。呼吸に伴って自分のからだ全体を隅々まで感じはじめるようになる。
しかし、ここで性行為をひとつの放出行為としてはならない。SEXに入る時、急いではならない。男性はひとつの放出行為を欲しており、溢れて流れ出るエネルギーが放出されると、気が楽になる。この気楽になることはひとつの弱さであり、溢れるエネルギーは緊張、興奮状態を創っている。それゆえ急いで何かをしなければと感じてしまう。そのエネルギーが放出されると弱さを感じてしまい、この弱さを弛緩状態だととる可能性がある。興奮はもうなく、溢れ出るエネルギーがもうないのでリラックスできるのは確かなことではある。だが、このリラックスというのはネガティヴなリラックス状態だ。SEXを急いではいけないというのも、性行為には最初と最後の二つの部分があり、最初の状態のままでいなければならないからである。最初の部分は、よりリラックスし、暖かい。その暖かさの中にとどまらなければならない、急いで最後へと移動してはいけない。最後のことは完全に忘れてしまうことが必要だ。射精を追求するのではなく、それを完全に忘れなければならない。
性行為をどこか他所へ行く手段にしては駄目だ。それはそれ自身で目的なのである。二つのからだ、二つの魂の出会いを楽しみ、互いに没入し、互いに溶け合うことが求められる。が、生理的に、女性はムードを欲し、男性はムードを欲しない。だが、愛があれば女性はムードがなくてもいけるように敏感性が作られ、男性は忍耐力ができてムードが作れるようになる。暖かさとは愛の存在、その愛で二人が互いに溶け合うための状況を作りだすことができる。もし、愛がなければ、性行為はひとつのせわしい行為になってしまう。接吻は互いのバイ菌の移し合いにしかならない。愛がある性行為には、からだの諸感覚は打ち震え、激しく振動し、叫びはじめることもある。そして、からだが激しく動くことを許されると、性行為はからだ全体に拡がってゆくことができる。こうして自分がからだに占領されてしまうと、自身でそれをコントロールできなくなってしまう。我々はそれを避けるためにその動きを抑制してしまい、これが問題を引き起こすことになる。
特に女性達が打ち震えることのすべてを抑圧している。女性はただの受け身のパートナーでしかない。なぜ、男達は女達をそんな風に抑えつけているのか? そこには恐怖がある。なぜなら、ひとたび女性の肉体がコントロールする力を持つと、一人の男が彼女を満足させることは非常に難しくなる。なぜなら、女性は連鎖的オーガズムを持ち、男は持つことができないからだ。男はたった一つのオーガズムしか持ち得ないが、女性は連鎖的オーガズムを持ち得る。どんな女性でも鎖状に最低でも三つのオーガズムを持っているが、男はただの一つだ。そして男のオーガズムによって、女性のオーガズムは刺激されて、より深いオーガズムへの準備をする。そうなると、ことはさらに難しくなる。そのときは、どうしたらよいのか? 彼女は直ちに次の男を必要とする。しかし、社会はグループSEXを禁じている。それはタブーだ。我々はもうすでに一夫一妻制社会を創り出してしまった。まるで、我々男性は女達を抑圧している方がいいと感じているかのようだ。
不感症の人妻が裏付けているように、性行為において性的な感情をまったく経験しない人間を探し出すことは難しくはない。SEXに意味を与えているものは、状況全体がかもし出した感情なのである。実に全女性の90%がオーガズムというものが何であるかを知らないのである。彼女らは子どもを産むことができる、そして男を満足させることもできる。しかし、自身は決して満足していないのである。
SEXにおいては、このように「自分」のポジションを頭に置くのか、からだに置いているのか、よくよく注意しなければならない。そして自分が愛とともにからだの中にいることができるなら、我々の意識はからだを超えて拡がってゆくことができるだろう。橋本敬三師が人生においてSEXをテーマにすべきだと提唱されている真意というのはきっと、こんなことを伝えたかったものと思料されるのである。
明日につづく


日下和夫