東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

感じる(最終日)

昨日の続き
操体の動診というのは一種の浄化である。それも静かな浄化作用といえるものだ。長年にわたってからだの中に溜まってきた緊張がすべて発散されなければならない。そして可能な限りの自然な動きができるように、からだは軽く、楽にならなければならない。そうしたとき、操体とは対照的ともいえるイスラム密教の旋回舞踏と同じような意識の動きが動診において可能となる。からだのエネルギーには「静」と「動」があり、エネルギーそのものはどちらも同じ活力に満ちている。静なるエネルギーである動診では、連動という全一的な動きから、やがて自分のコントロールを失う瞬間がやってくる。その瞬間こそが必要なのだ。決して「我」がコントロールしてはならない。なぜなら、我のコントロールこそが障壁であるからだ。我自身が障壁そのものなのである。我のコントロール機能、つまり我々の頭が障壁になっているのだ。だから操体臨床では快感覚を媒介に使って、その快でからだのつくりを操らせる。それはからだの無意識の動きになり、さらに快に従いつづけるよう促すのである。もちろん、最初は「我」が動き始めなければならない。だが、やがて我が無意識の動きに乗っ取られる瞬間がやってくる。そして、コントロールがきかなくなったと感じてくる。
んむ・・・。 この流れ、似ていると思わないだろうか。そう、SEXにおけるオーガズムこそが元祖なのである。しかし、このオーガズム、夫婦の間にはほとんど起こらない。なぜなら夫婦というのは社会的な現象であり、人間関係ではないからだ。ひとつの制度として、強制された社会現象なのだ。夫婦の間には、お互いが固定的な役割を演ずることが法的に強制される。しかし、自然な性エネルギーは、妻や夫以外の異性を求めることになる。いわゆる不倫というのはオーガズムに導かれた性的自己革命なのだ。
オーガズムは二人の恋人でなければ起こらない。もちろん、夫婦であって恋人同士であることは可能である。が、そんなことはごく稀にしか起こらない。恋人たちの間ではオーガズムというものが何か達するに値するものだということに、まず、女性が気づく。そして女性がオーガズムを持てないと、男性もまた本当にそれを持つことができない。オーガズムとは二人の出会いであり、お互いの中に溶け合ったとき、それを持つことができる。オーガズムは一人が持てて、もう一人が持てないかも知れないようなものではない。そんなことはあり得ない。性行為での放出はあるだろうし、射精は可能だ! 慰めも可能だ! しかし、それらはオーガズムではない。オーガズムとは、からだが、もう物質としては感じられないような状態のことをいい、電気エネルギーのように振動し、深く波打つ現象なのだ。
イスラムスーフィのダービッシュダンスでもそれと同じことが起こる、その同じ感覚を味わうことができる。しかし、スーフィではとても激しい動きが要求される。一方、動診においては媒介者の誘導のもと、静なる動きを通してそれが可能なのである。そのとき、我は淵に立っている。我々は再びからだに帰ってきた。意識はまわり中に開いている。あらゆるものが入ってきて、どんなものも除外されない。あらゆる感覚に対して開いている。
意識の中には一切の感覚が含まれる。心とはひとつの流体、感覚の流れである。本来、意識と無意識のあいだには境界線など存在しない。これらは二つの別々の心ではない。「意識する心」とは「頭」に依存し、「無意識の心」とは打ち捨てられ、黙殺され、閉ざされてきた部分を指し、からだに依存している。これが分裂をつくり、亀裂を生じさせる。いつも内部に葛藤があるのはそのためだ。無意識の部分は使われざる潜在性、用いられざる可能性、経験されざる冒険として常にからだに存在している。だが、この潜在性、この無意識が花開くことを許されて、はじめて我々は実存の歓びを感じることができる。生の至福を、エクスタシーを感じることができる。操体はこの感じることを旗じるしとして日進月歩の道を歩む。
一週間、「感じる」から「性」へのアプローチを試みてきたが、何とか関連付けできたように思う。こじつけだとしか思えないようなところもあったかも知れないが、そこはご容赦願いたい。
明日からは静岡の小代田実行委員の担当です。よろしくおねがいします。


日下和夫