映画を観た感想を100人に聞いたら100通りの感じた方があるように、一人独りが体感する中で感じる感覚ということは操体の臨床におけるきもちのよさにおいても一人独りが違うイメージを持っていることだろう。
本日は私が思っている「きもちのよさ」と「快」の違いについて書いていきたい。
よく患者の人達の声に「痛いけどきもちがよい」、「くすぐったいがきもちがよい」という人がいる。それもまた一つの「きもちのよさ」と捉えても良いと思うのだが、こういった「きもちのよさ」と「快」とは本質が異なるように思える。
最近の私達が学んでいること、体感している「きもちのよさ」は「きもちがよい」という感覚からベクトルが「快」に変わってきているように感じてしまう。端から見れば同じのように聞こえてしまうが、その本質を辿っていくと違うように感じる。一体、「気持ちのよさ」と「快」とは何が違うのかを考えていきたい。
この二つのコトバの響きを休みの日や寝る前にずっとイメージしていたのだが、どちらもとても響きは良く、心地よい感覚がある。だが、よく聞き分けていくとカラダは「きもちがよい」というコトバの響きを選択し、命は「快」という響きを選択することを悦んでいるように思える。このように気持ちのよさを捉えていくときもちのよさには「カラダが悦ぶきもちのよさ」「命が悦ぶ快」の2つがあるように思える。
この二つに共通していることは「委ねる」ということにある。そこには自分という思考は無く、ただ委ねていられる感覚をいう。この世界観は意識と思考を使っている以上、なかなか日常生活において体感することが出来ない感覚なのである。
こういった「委ねる」という感覚を体感すると生きるということにおいて思考と意識の他にもそれらが関与しない無意識の感覚が在るように思える。私はこの無意識の感覚に「快」の本質があるのだと思っている。これは昨日書かせて頂いた「第七感」の話しの続きになるが、自我を超越し、全てを委ねられる感覚が第七感の覚醒に繋がっているように思う。しかし生活という空間の中に身を置いている以上、この覚醒はなかなか出来ない。
だが、一つだけ日常生活の中で「委ねる」という感覚を体感することが出来るのが「眠り」である。
私の感覚だと、眠りには「思考が眠る眠り」と「意識が眠る眠り」、「カラダが眠る眠り」があるように思える。夢をみることや眠れずに朝まで時が経過するのを待っているような眠りは誰にでも経験したことがある眠りだと思うが、それは不安や緊張が邪魔をしているか、または意識とカラダが眠りを要求していない状態であり、寝ていても寝ていないような状態にある。この眠りはとても不快な感覚がある。
しかしそれとは逆に寝たらアッという間に朝を迎えていたり、ほんの少しの間だけ寝ていた等の眠りは睡眠を取った時間に関わらず、心とカラダがリフレッシュされた状態にある。この眠りは意識や思考は完全にOFFになり、とても気持ちがよく、臨床で快適感覚を味わった後の爽快感に類似している。
その眠りの状態こそが先程私が言っていた「委ねている」状態に近いのだと思う。それは何かに例えようとしても例えられるものでもない不思議な感覚であり、それを体感すると命がとても悦んでいるように感じる。
話を戻すがこのようなことは快の本質にもいえて自分という思考が介入してしまうと、「〜けど」「〜のような」という〜が付くようなきもちのよさになる。ただ純粋に自分自身を委ねていられる純粋な快こそが本来の快の本質であると私は思っている。