東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

「五感を超えた感覚」

先月東京操体フォーラムが開催された。その時に同志である日下さんの講義の中に人間の五感についての話があった。

その話を聞いて以降、五感に興味を持ち自分なりに臨床に活かせないかと考えていたのだが、そもそも医者を含めたカラダを診させて頂いている人間が診断の中で五感をそれほど重視いないことがおかしいのではないかと思っている。

私が思うに人間のカラダにおいて五感とカラダにはお互いがバランスを取る様な関係性があるように思える。それは本人しか分からない「感覚」という目には見えないもので表わされていて、五感におけるバランスの不調和が人間の命の営み(息・食・動・想)のバランスを崩し、病気になるのだと思う。

この五感のバランスを考えていきたいのだが、私に当てはめると私は自分の感覚的に視覚、聴覚が悪く、その分、味覚、嗅覚、触覚は良いように思う。聴覚が悪い原因は自分では分からないが、視覚は明らかに普段の使い方の過ちによる結果だと思う。それを有難いことに五感が「間に合えば良い」ようにバランスを取ってくれている。このバランスのおかげで私は日常生活を不自由なく暮らすことが出来ているのだが、この五感が間に合わない、つまりどれか一つでも失ってしまったらどうなるのだろうか?

私は子供の頃に視覚に原因不明の障害が生じてしまった経験があるが、その時は自分に何かが欠けているような感覚はなかったように思う。現在、なんらかの原因で五感の何かを失ってしまった人達にもそういった感覚はあるのではないだろうか。現実では何かを無くしてしまっているように見えても、何かで補おうとする命のバランス感覚が作用し、第三者が思うほど本人は不自由を感じてはいないのではないだろか。
それは神様が何か新しいものを与えられているようにすら思えてしまう。

例えば産まれつき耳に障害がある人が音楽で類い稀な才を持っていたりする。それは正常に機能している人には足りない感覚、つまり第六感に新たな感覚が与えられているのではないだろうか?
一般的にこの第六感とは感・直感、物事の本質を掴む心の働きと言われているが、先程例に挙げた人は私が思うに自我が消え、とても研ぎ澄まされた世界に身を置いているような感覚なのだと思う。これは決して現在インターネットに載っているような他力で簡単に手に入るものではない。命がバランスを取ろうとする生命現象の中でのみ得られるものなのだと思う。

そして私はこの先にも自在空間と繋がり、自我を超越する未知なる感覚、つまり第七感があるように思える。現在私達が臨床でテーマにしている「快」のベクトルはこの第七感に向かっているように思う。
しかし五感が正常に機能している以上はこの感覚を体感することはなかなか困難なことであり、意識して容易に手に入るものではない。ただ、カラダにも使わせて頂くルールがあるように心・意識にも使わせて頂くルールがあり、その法則を紐解いていければ生と死を超越したこの感覚に目覚めることが出来るのではないだろうか?

実際のところ、現代の操体ではそういった可能性を実現できるところまで進化を遂げている。私が思うに生前、橋本敬三先生は五感を超越した感覚に目覚めていたのではと思えてしまう。その感覚を人間誰でも体感出来る術を操体法に示して下さったように思えてならない。

今日は少しぶっ飛んだ話をしてしまいましたが、明日もお付き合い下さい。