こんにちは。
今週のブログは、友松の担当となります。
どうぞよろしくお願い致します。
前回の担当の時は、紅葉真っ盛りで日一日と寒さが深まる頃だったのですが、今回は寒さは残るけれども、日一日と春の訪れの予感を感じさせられる、そんな頃合のようです。
梅の花の便りも聞こえてきそうな時節ですが、まわりを見渡せば、まだまだほとんどの木々は葉っぱを落としたまま、眠っている状態のようで、茶色い景色が広がっています。
眠るときというのは、余計なものは取り去り、余計なことも考えず、ただただ自然の恩恵に委ね、英気を養う。そんなことを、枝をむきだしにして、シルエットをさらけ出している木々達から教えてもらっているような気がします。
自然は確かに自然良能作用を与えて下さっている。それも万民、万物平等に。それを受け取るか、受け取らないか。
ありのままをさらけ出さないと、与える方も何を与えたら良いのか解らないのではないか。少なくとも自然と向き合う時は、浮世の鎧は脱ぎ捨て、ありのまま素直に向き合う事。変に取り繕ったり、企んだりしても仕方がない。いつも見られているのだから。
木々達の眠りを妨げないよう、お日様もまだ少し遠慮がち。真昼に照っても、夕近づけば雲を纏って控え気味。なんだか太陽が木々に合わせているような印象となってしまったが、一般的に考えれば、逆になる。
地球の地軸には少し傾きがあり、自らも自転し、太陽の周りを一年かけて公転しているから、日本には四季がある。その気候に合わせるように、木々や他の動植物も冬の間は、眠りにつき、英気を養うのがほとんどだ。木々達が自然環境の法則性に合わせているといえよう。現象だけ論ずれば、それが正論だと思う。
しかし、その現象はどうやって生じるのかといったら、また違ってくる。太陽系の形成は46億年前に始まったとされるが、偶然が度重なり今のようになったとは思えない。その根源には何があったか。物理的には巨大な分子雲の一部の重力による収縮とされているが、その元の元の働きかけというのは何なのだろうか。
唯物論では限界がある。現に質量が何から生じているか、といった事が解明できてはいない。しかし、唯心論の立場に立てば、それは愛だと言えるのではないだろうか。
根源に愛と調和という創造主の理念があるから、それがカタチづくられる。その理念の元では皆平等なのだと思う。自然環境を現象のみで考えれば、太陽が支配者で木々は従者という見方もできるが、そうではないと思う。
ただ、それぞれの個は、それぞれ意志と意識を持ち、その法位に準じている。太陽には太陽の、木々には木々の役割があり、それを全うするイノチがある。生命という現象(有機だけでなく)がイノチを全うするためには、それぞれに自然法則が自在するが、太陽だって例外ではない筈だ。
宇宙の中の太陽が、どんな自然法則の元に、イノチを全うしようとしているのかは、解らない。ただ、自然法則は個を支配するために自在するのではなく、個がより良くそのイノチを全うする為に自在して在るのだと思う。そして、それぞれの自然法則の根底にあるのは愛と調和だ。
愛と調和の元では、それぞれの個のイノチは尊重されるべきであって、甲乙をつけられるものではない。そして様々な面で、それぞれがつながりをもっている。地球という生命体のそれぞれの有機生命体のイノチの躍動が、太陽の生命活動にも影響を与えているという事もあると思う。みんなお互い様なのではないだろうか。
そうやって考えていくと、太陽が木々達の為に気を使っているように見えても、おかしくはないと思うし、そう感じられた事に「有難う御座います」なのだ。
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4月29日(祝)に開催いたします。
『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
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