東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

臨床家が選ぶ上手い下手

ある高齢臨床家のこんな話を聞いたことがある。

 

 もうじき百歳を迎えるという老いぼれ臨床家が、毎朝目を覚ますとき、治療の上手い臨床家であるか下手な臨床家であるか、どちらか一方を選んでいるという。 そこでその臨床家はいつも上手い臨床家である方を選んでいるのだそうだ。

 

 しかし、実際には我々が大概下手な臨床家の方を選んでしまうのは一体どうしたことだろう? 自分が選択できるということにさえ気がつかないのはどうしたことだろう? 

 

 これは、我々臨床家の問題の中で最も込み入ったものの一つである・・・・・・。 それには深い考慮をはらわねばならない。 それにこれは理論上のことではない。 我々臨床家に直接かかわることだ。 誰しもがこのように下手に振る舞っている。 いつも、悲しい、憂鬱な、惨めな方を選ぶ。 これには何か深い理由があるに違いない・・・・・・。

 

 まず、第一に、人が育てられるその方法が、非常にはっきりとした役割を演じているということだ。 まだごく幼いうちから子どもは政治駆け引きを学ぶことになる。 その政略は自分を惨めに見せかけるというものだ! そうすれば同情が得られる、みんなが注目してくれる・・・・・・。 具体的に言うと、病気に見せかければいい、そうなったらみんなから大切にされる。 

 

 病気にかかった子どもというのはいつも独裁的だ。 家族全員がその子に従わなければならない。 その子の言うことがルールになる。 だが、子どもが元気で幸福なときには誰もいうことなど聴かないし、健康なときには誰も世話などやかない。 まったく健康で申し分のないときには誰も注目しない、だからほんの幼少のころから、我々は惨めでいる方を選びはじめることを学ぶ。 悲しいこと、悲観的なこと、生の暗い方の側を選んでしまうことになる。 感受性のレベルが高い人なら、ごく初めからその違いを感じはじめることができるであろう。 

 

 もし自分の治療が下手であれば、そこから何かが得られるのである。 治療下手であれば周りの人が同情的になり、その臨床家は哀れみを獲得することができる。 周りの人が優しくなり、その臨床家は同情を獲得することができる。

 

 が、もし、上手いのなら決まって何かを失うことになる。 治療が上手いのであれば、みんなが上手い自分に嫉妬する。 嫉妬するというのは、みんなが自分に敵対するということだ。 そういうときには誰も優しくない。 あらゆる人が敵になる。 それはかって三浦寛師が受けた操体同胞からの仕打ちのように・・・・・・。

 

 だから我々は他人の敵対するほどには喜ばないようにと学んできた。 自分の優越感を見せないように上手さを見せないようにと・・・・・・。 そしてその結果、我々が大概下手な臨床家の方を選んでしまう理由になるということだ。

 

 

2016年春季フォーラムは4月29日(金)開催です。

テーマは「上手い下手について」