東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

③感性、センス、タントラの考察

つづき

 

 我々はいつでも自分は自由だと思っているようだが、決して自由ではない! 我々はある一定の範囲内で動きまわることができる。 が、自由ではない。 家族についてもそれは同じである。 もし、家族という刑務所の境界を越えはじめたら、そのとき、自分が閉じ込められているのだということを初めて知ることになる。 

 

 もし夫が妻以外の女性と楽しそうにしていたら、妻は夫の敵になる。 もし妻が誰か夫以外の男性と親しく話をしていたら、夫は妻に腹を立てる。 夫は妻を殺してしまいたい。 つい先日、「とても愛しているよ・・・・・・お前のためなら死んでもいい」と言ったばかりなのに。 ほんの少し境界を越えるだけ! それだけで自分が囚人だということを知らされてしまう。

 

 境界を超えることがまったく無ければ、すべては何の問題もないという至福に満ちた無知の中で生きることができる。 多くの花が咲き乱れているところへ行って、すべての花の香りを味わうことのできる能力を自分は持っている。 しかし、その能力に執着したことによって、その所有が感性を破壊してしまった。

 

たったひとつの花からだけ蜜を集めている蜜蜂のことを考えられるだろうか? その蜂蜜はそれほど豊かにはならない。 豊かさというのは多様性の感性の中から生まれてくる。 我々の人生はとても退屈であり、豊かではない。 我々は、退屈するためにありとあらゆることをやっているというのに、その退屈はどこか別のところから起きているのだと思っている。

 

 今、ひとりの夫がもう愛してはいない妻と暮らしている。 ところが我々の民法はこう言う。 「ひとたび婚姻契約したら、その契約を遂行しなければ契約不履行になる。」 それはルール違反だ! それから倫理道徳も言う、「約束の人になれ!」と。 

 

 ひとたび何かの関係性にかかわったなら、我々はその責務を果たさねばならない。  今、妻が退屈しているとしても、別に驚くことはない。 愛は消えてしまった! それは毎日の昼食にマクドのハンバーガーを食べるように強制されているようなものだ。 いつまでそれを楽しんでいられるのか? 

 

 最初の日は楽しんだはずだ。 そう、二日目、そして三日目も・・・・・・だが、それから先は神経に障ってくる。 いつまでも、いつまでも・・・・・・そうなったら我々はその味に飽きてしまって退屈してくる。 そして、人間は退屈なために自分の頭を紛らわすありとあらゆる方法を考え出す。

つづく