つづき
我々は人生における関係から生じた退屈さをとにかく紛らわそうとしている。 テレビの前で何時間にもわたって坐りこんでいる。 何と愚かなことか! あるいは雑誌を読み、あるいはラジオを聞き、あるいは新聞を読み、あるいは退屈している人々が集まるクラブに行く。 この現実を理解しようと試みてはどうだろう・・・・・・
タントラは言う。「蜜蜂でいよう ― 自由であろう!」 女性を愛しても、その彼女と一緒にいるな。 タントラはそうは言わない ― 。 彼女とともにいよう! ところが我々は考える。 「もう私は四〇歳になる。 仕事を抜け出すことなどどうしてできよう? それに、経済的にはとてもうまくいっているのに・・・・・・」
だが我々は霊的に、精神的に死につつある! 我々はゆっくりと自殺しつつある。 そうならば、それはそれで全く何の問題もない。 もし我々が自分自身を破壊するのを望み、預金残高を守りたければ、それはそれで何の問題もない。 だが、仕事が満足すべきものでないと感じたときには、そこから抜け出すことができる! これがタントラレボリューションだ。
あることがもう魅力的でなくなったと自分の感性で気づいたとき、それが魅力的な質、魅きつける質を失い、もう磁力的でないと気づいたとき、そのときにはしがみつかず、「申し訳ないけど」と言わなければならない。 そして過ぎ去ったこと、過ぎ去ったその人、その仕事、あるいはそれが何であれ、それを通して起こったことのすべてに感謝して別れることができる。 ただし、未来に対しては開いたままでいること ― これがタントラでいう蜜蜂であることの意味である。
さらにタントラは言う。 「すべての花それぞれが蜜に満ちていると知っているのは蜜蜂だけだ」 だが、タントラは反対の極へ行けといっているのではない ― 。 現に反対の極へ行くことのできる人たちがいる。 それに人間は非常に愚かだ・・・・・・
さて、一方の極は誤りでもう一方の極・・・・・・それも誤りだとわかる! 初めの極は抑圧的だった。 我々は何年にもわたって同じ女性、同じ男性と、生涯にわたって同じ相手と寝なければならない ― 。 まったく何のセンスも感じられない! なぜ自分はそうし続けるのか。 その何故かを知らずに。
社会、国家、聖職者、そして政治家らが我々の中心である家族の安定性に社会全体が依存しているのだとタントラは言う。 この狂った社会は狂った家族に依存している。 狂った家族がひとつの構成単位、一個のブロックであり、それによってこの社会という刑務所全体が作られているのだと。
つづく