おはようございます。
今日で、今回の担当も最終日となります。
今回のテーマを振り返ってみますと「プロ意識とプロ根性」でした。
今回のブログで、私は当初「根性」という言葉を使うのを躊躇っていました。
私の子供の頃は、「巨人の星」をはじめスポ根漫画が全盛でしたが、なにかスポーツをする度によくシゴカレましたから。
その時、よく耳にしたのが根性という言葉であり、自分の中でも根性という言葉が浮かび、それをバネにして頑張り、からだに無理を強いていたと思います。
今になって思い出すと、何でもっと効率的で理に適った指導がされていなかったのだ、という気持が強くなります。
シゴキは限度を越すと、からだを壊してしまうんですね。壊すまでに至らなくとも、そのスポーツ特有のからだのアンバランスを招き、それが原因となって、時間空間のかかわりにつれ、健康を損ねることにつながります。
ですから、根性という言葉にはあまり良いイメージはありませんでした。
そして、「頑張るな」「威張るな」「欲張るな」「縛るな」というバルの戒めに反する事にもつうじると思っていました。
しかし、それは「根性論」からの自分のイメージでしかなかったのですね。
「根性」の本来の意味は、その人が持って生まれた性質とか、あるものに特有な性質のことですから、この意味からすると「根性論」の根性とは別物といった感があります。
本来の根性の意味を考えていて、植物が思い浮かんできました。
木は何百年、何千年と生き、幹や枝葉を伸ばし、その呼吸は私たちの呼吸を支えています。大変有り難い存在ですが、その存在を存在たらしめているのが、大地にしっかり根付いた根っこです。
根っこが大地から養分を吸い上げるから,木は生長し何百年も生きることができる。この根っこの能力や素地。素地という事を人間に当てはめ、元々備わっているものを考えれば「感覚」は外せないです。そういった「根」。
それから「性」は石田梅岩が言ったように、人間をはじめ全てのものが、生まれてくるときに天から授けられた理(原則)、もしくは天地があらかじめ備えている道理(宇宙の摂理)の事。
この「根」と「性」を合わせるような捉え方でもいいのではないかと思いました。
そうなると、無理や無駄というものがなくなってくると思います。根性論のように、何が何でも結果を求めようとするのとは、まるで違います。
理に適うように感覚をとおして学び、そして務め、能力を高め生長していく。そしてそこには、木がそうであるように他への貢献、自分も生き、他も生かすということが伴います。
「プロ根性」ということも、それを元にそれぞれ特有の分野で、感覚をとおして理に適うように、自分も活き、他も活かしていく、というものだと思いました。
そして、その性質は木の根っこがそうであるように、年輪を重ねるごとに、深みを増し、広がりをみせるものだと思います。
一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。
明日からは、畠山裕美先生の担当となります。
来週もどうぞ、よろしくお願いいたします。
友松 誠。