テーマは 「正義」。
「正義」 は 「道徳的」 な正しさや 「良心」 に適った概念であるということに一応はなっている。 しかし、通常の生活では 「良心」 という概念はあまりにも簡単に考えられすぎている。 まるで誰でもが良心をもっているかのようだ。 実際は、感情の領域における 「良心」 の概念は、知性の領域における 「意識」 の概念と等価なのである。 そして我々は知性の意識をもっていないのと同様に感情の領域においても良心などもっていようはずがない。
知性の意識とは、自分が普段知っているすべてのことの全体を同時に知る状態を言い、また自分の知っていることがいかに少ないか、いかに多くの矛盾がその中にあるかを見ることのできる状態のことである。 そして、良心とは、自分が普段感じること、あるいは感じられるすべてのことの全体を同時に感じる状態のことである。
ところが、誰もが自分の内に多様な、何千という矛盾した感情をもっている。 自分は無であるという深く隠された認識やあらゆる種類の恐怖から、最も馬鹿げた種類の自己欺瞞、自信、自己満足、自己賛美に至る感情をもっている。 そのために、これらすべてを一緒に感じることは苦痛なだけでなく、文字通り堪えがたいことなのである。
もし、その内的世界全体が矛盾から成り立っている人が、突然これらの全矛盾を自己の内部で同時に感じるとしたら、「良心」 と言える。 またもし、自分の憎んでいるものすべてを愛しており、愛しているものすべてを憎んでいると急に感じるとしたら、「良心」 と言える。 あるいは真実を話しているときに嘘をついているとか、嘘をついているときに真実を話しているとかを感じているとしたら、「良心」 と言える。 またもし、このことすべてから生じる恥ずかしさと恐ろしさを感じることができたら、これこそが 「良心」 と呼ばれる状態なのである。
ただし、人はこのような状態で生きることはできない。 矛盾を破壊するか、若しくは良心を破壊するかしなければならない。 ただし、良心は破壊することはできないが、眠り込ませることならできる。 つまり、自己に対する一つの感情を突き破れない障壁によって他の感情から切り離し、決してそれらを一緒には見ないように、あるいはそれらが両立しがたいことを、すなわち一つの感情がもう一つの感情と一緒に存在することの不条理さを感じないようにすることはできるのである。
しかし、人間にとって、つまり自分の平和と眠りにとっては、幸いにも、先ほど述べたような良心の状態は非常にまれである。 小さな子どものときから緩衝システムが自己の内部で育ちはじめ、強力になり、自分から自己内部の矛盾を見る能力を奪い去ってきているので、自分には突然の覚醒などという危険はまったくない。
覚醒は、それを探し求めている者、それを得るために長期間、飽きたり気を緩めたりしないで自己と闘い、自己修練をする準備のできている者にのみ可能なのである。 そのためには緩衝システムを破壊すること、つまり矛盾の感覚と結びついているあらゆる内的苦痛と直面することを由として進んで歩み出る必要がある。
さらに、緩衝システムの破壊自体が非常に長期間の努力を必要とする。 そして自分の努力の結果として、良心に適った正義の覚醒から生じるありとあらゆる不快と苦痛を舐めることを了解した上で、この努力に取り組まなければならない。
明日につづく