東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

正義②

昨日のつづき

 

 「正義」 の概念としての 「良心」 の象徴は 「火」 である。  比喩的にいうとガラスの蒸留器の中の粉末をすべて融合させることのできる唯一の火である。  また、正義論というような自己探求を始める時点では欠けている統一を生みだす火なのである。

 

 「正義は道徳的な正しさや良心に適った概念」 ということになっているが、「良心」 という概念は 「道徳」 という概念と何の共通点もない。  良心は普遍的で恒久的な現象である。  良心はあらゆる人間にとって同一であり、それは緩衝システムがないときにのみ存在することができる。  

 

 人間のさまざまなカテゴリーを理解するという観点から見れば、内部にまったく矛盾をもたない人間には良心があると言えるかも知れない。  この良心は苦しみではなく、それどころか我々にはわからないまったく新しい性質の喜びなのである。  

 

 しかし、何千という、異なった 「私」 をもつ人間にとっては、ほんの一瞬の良心の覚醒でさえ苦痛を伴わずにはいられない。  もし、良心のこのような瞬間が長くなれば、またもし、恐れるどころか協調しながらそれを保持し、継続させようとするなら、非常に微妙な喜びの要素が徐々にこれらの瞬間の中に入ってきて、未来の 「明晰な意識」 を前もって味わうことができるのである。

 

 ところが 「道徳」 の概念には普遍的なものは何も無い。  なぜなら、道徳は自己の内にある緩衝システムによってできているからだ。  だから、普遍的な道徳というものは皆無である。  例えば、日本で道徳であるものはドイツでは不道徳で、ドイツで道徳であるものは日本では不道徳である。  東京で道徳であるものは大阪では不道徳で、また大阪で道徳であるものは東京では不道徳である。  社会のある階層で道徳であるものは他の階層では不道徳であり、その反対もしかりである。

 

 道徳は常に、どこにおいても人為的な現象である。  それは種々の 「タブー」、つまり、制限やさまざまな要求から成っており、それらの根拠は時には筋が通っていることもあるが、時にはまったく無意味になっていたり、もともと何の意味もなかったりする。  さらには誤った基盤の上に、つまり迷信や偽りの恐怖の上につくられていることもある。

 

 そんな道徳というものは自己の内にある緩衝システムでできている。  そして緩衝システムには多くの種類があるために、また異なった国や時代、さらに、社会のさまざまな階級における生活状態が多様であるために、それらによってつくりだされる道徳も非常に異なり、矛盾している。  つまり、すべてに共通な道徳など存在するはずがない。

 

 道徳に対する何らかの普遍的な観念が、たとえば日本に存在するということは不可能でさえある。  欧米の一般的な道徳は 「キリスト教道徳」であると思われる。  しかし、そのキリスト教道徳という観念そのものが非常に多くの異なった解釈を許し、また多種多様な犯罪がキリスト教道徳によって正当化されてきている。   

 

 いずれにせよ、もしキリスト教道徳やイスラム教道徳が現に進行している戦争を世界にもたらしたのだとすれば、現代日本においては、それらの道徳をどう理解しようと、それと共通するものはほとんどない。

 

明日につづく