昨日のつづき
一般に正義は道徳的な正しさであるというが、道徳という観念は良い行い、悪い行いという観念に結びついている。 しかし、善悪の観念は人によって常に異なり、自己の内に緩衝システムをもつ者においては常に主観的で、しかもある時点あるいは状況にのみ関連している。 主観的な人間は普遍的な善悪の観念をもつことはできない。 主観的な人間にとっては、悪とは、自分の欲望や興味や善の概念に反するすべてのものだからだ。
主観的な人間には悪は存在しない、ただ異なった善の概念が存在するだけだと言えるだろう。 悪のために故意に何かをやる者は一人もいない。 誰もが自分の理解する善のために行動するのである。 しかし誰もがそれを違ったふうに解釈しており、その結果人々は、善のために互いに足を引っ張ったり殺し合ったりしているのだ。 原因はここでもまったく同じ、つまり人がその中で生きている無知と深い眠りにある。
このことは、今までに人々が一度もこのことを考えたことがないのが奇妙に思えるほど明白である。 しかしそれでも、人々はこれを理解せず、誰もが自分の善こそ唯一の善であり、他のすべては悪であると考えたのだという事実は残る。 人々がいつかこのことを理解し、善についての普遍的で同一の概念を発展させるだろうと望むのは素朴すぎるし、無意味でもある。
しかし善と悪は、人間から離れてそれ自体で存在している。 ただこの問題は、我々からは非常に離れており、今すぐ理解しようとしてもあまり意味がない。 ただ一つのことを覚えておく必要がある。 それは、人間にとって、善悪についてありうるべき唯一の恒久的な観念は進化の観念と結びついているということだ。
だが、もちろん機械的な進化の観念とではなく、意識的努力、自己の存在の変化、内的創出、そして恒久的な 「私」 の形成を通じての人間の進化という観念と結びついているのである。
明日につづく