昨日のつづき
宗教的な人々は正義や道徳について話すのが大好きだ! しかし道徳は自己暗示にすぎない。 本当に必要なのは道徳ではなく良心である。 賢い人は子どもたちに道徳などは教えない。 いかにして良心を見つけるかを教えるのである。
こう言うと人々はあまりいい顔をしない。 世間の人はそれに対して 「愛」 がないと言う。 そう言いたい気持ちはわかる。 宗教の教えのように人の弱さと偽善を勧めないばかりか、反対にすべての仮面を取り去ってしまうからである。
真実を求める者は愛や宗教については話さない。 自分がそれらからいかに離れているかを知っているからだ。 宗教の教えは信者のためのものだ。 仏教徒とは、仏教の教えに従って生きる、つまり教えに従ってすべてを行なう者のことである。
愛や道徳を語る人は本当にイエス・キリストの教えに従って生きることができるだろうか。 もちろんできっこない。 しかしこの類の会話は常にあるだろうし、また、言葉が何よりも大事である人たちがまわりに常にいるだろう。 これは間違いようのない徴候である。 そんなふうに話す者は空っぽの人間であり、時間を費やすだけの価値はないということだ。
このように道徳と良心とはまったく異なったものである。 ある良心は他の良心と矛盾することは決してない。 しかし、ある道徳はいつでも他の道徳と容易に矛盾してしまい、それを完全に否定することができる。
自分の内に緩衝システムをもつ人間は非常に道徳的であるかも知れない。 またそれらの緩衝システムは互いに非常に異なったものでもありうる。 これはつまり、二人の非常に道徳的な人間が互いを非常に不道徳だと考えることもありうるということだ。 一般的には、ほとんど必然的にそうなってしまう。 つまり、道徳的であればあるほど、人は他の道徳的な人を不道徳と考えるのである。
明日につづく