昨日のつづき
正義に関して、人々が自分のものだと思っている多くの特質があるが、それらは現実には、発展と進化において低い下層の人間より高次の段階にある人たちにしか属することはできない。
個体性、単一で恒久的な 「私」、意識、意志、為す能力、内的な自由の状態・・・・・・
これらはすべて普通の人間が所有していない特質である。 善悪の観念もこれと同じカテゴリーに属しており、その存在そのものは恒久的な目標、恒久的な方向、恒久的な重心と結びついている。
善悪の概念は時として真と偽の観念に関連している。 しかし、善悪が普通の人間にとって存在しないように、真と偽も同じように存在しない。 恒久的な真と偽は恒久的な人間にとってのみ存在しうるのである。
もし人間自身が変わり続けるなら、自分にとっての真と偽もまた変化し続けるだろう。 また、もし人々がみな瞬間ごとに違った状態にいるなら、人々の真に対する概念は自分の善に対する概念と同様、多様であるに違いない。
昨日偽りだと思っていたものをどのようにして今日は真だと考えるようになるのか、またその逆の変化に、人は決して気づくことがない。 人々は、ちょうど自分の中の 「私」 があるものから別のものへと移っていくのに気づかないように、この変化に気づかないのである。
普通の人間の生活の中では、真と偽はいかなる道徳的価値ももっていない。 なぜなら、人間は決してある一つに真実を固守することはできないからである。 自分の真実は変化する。 もしある期間変わらないとすれば、それは単に自己の内にある「緩衝システム」 で保たれているからにすぎない。
また人は真実を言うことも決してできない。 あるときには真実が語られ、またあるときには嘘がつかれるのである。 その結果、自分の真と偽は価値をもつことができない。 そのどちらも自分にではなく、偶然に依存しているからである。 これは、自分の言葉、思想、感情、真偽の概念に関しても同じく真実なのである。
明日につづく