東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

終業しない修業①

今週の担当は岡村です。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

今回のテーマは「しゅぎょう」。

 

「学校」の「卒業」はわかる。

「課程」の「修了」もわかる。

 

では、操体の修業にも終業はあるのだろうか。

 

 

思い返せば、平成11年の操師養成講座。

三軒茶屋での第一回講習会は、橋本哲学の「想念」からスタートした。

 

三浦理事長は、橋本敬三師の宗教観として、元々の生命は救われている、

これは「絶対的な神生」なのだよ、と語られた。

 

「帰一の法則」、死とは何か。

それは、みんな行くところだから良いところだろう。

 

一番、気持ちが良いところに帰るんだ。

 

橋本敬三師も、このように言っていた。

「この世は極楽でした。

 私は先に祖神のもとに帰ります」と。

 

ワタシ自身、その時から橋本敬三師の

哲学思想にある「想念」を軸にしつつ

臨床を学んでいこう、と決めた。

 

なぜなら、この世、人生で残せるのは、

わたしたちが、なにを考え、

なにを「愛」してきたか。

 

たったそれだけなのだから。

                       (続く)

 

 

 

 

 

「終業」は、ある分野の学問や技術を学び取る課程を終わらせ

た場合に使われるけれど、学びの深さに個人差はあるだろう。

 

そもそも修業自体、人間に生まれた理由の

一つだと思う。

 

自分や他人のためになるからやってみたい、

というものは、植物や動物、果ては細菌など

生命を構成する細胞に、あるのだろうか?

 

生命と生命をわざわざ分ける理由なんて、

ホントは、必要ないんじゃないだろうか。

 

分ける為に修業しているのか、それとも

一つになりたいから修業したいのか。

 

 

人間の「修業」は「学業」の延長戦にある。

 

終わりと始まりが、もしあるとするならば、

どこまでわかって言っているのか。

 

なんて理屈を捏ねても始まらないのが修業。

 

そもそも、馬に乗らなければ落馬しない。

馬に乗らなければ遠くに行くことはできない。

 

低いものを飛び越えるのも、高い場所に登る

にも、ふやけた生き方をしているのでは、

失望も絶望もない。

 

静かな歓喜なる悦びも、味わえない。

 

生きている限り愉しめる。

操体」の創始者は放言しているんだから、

橋本敬三師の哲学思想に答えていこうよ!

 

と、いまだ操体で質問を続けている、

私はここに今も在る。