(つづき)
「終業」は、ある分野の学問や技術を学ぶ課程を終わらせた
場合に使われるけれど、学びの深さに個人差はある。
そもそも「修業」の過程にこそ、人間に生まれた理由の一つ
だと、このように考えてみると面白い。
自分や他人のためになるからやってみたい、と分けて考えて
行動するなんて、植物や動物、細菌などには無いだろう。
ならば、生命と生命をわざわざ分ける理由なんて、ホントは、
必要ないんじゃないだろうか。
分ける為に生きるのか、それとも一つになりたいからなのか、
シンプルに感じてみたらいい。
人間も、この世で一番気持ちの良いことを、修業したいのだ。
人間の生命、その「修業」も「学業」の延長戦にある。
どこまでわかって「知っている」とか、「わかっている」と、
言っているのか。
理屈を捏ねても、始まらないのも修業。
生きている限り愉しめる。「操体」の創始者は放言している。
その、橋本敬三師の哲学思想に答えて生きて生かされたい。
と、いまだ操体で質問を続けている、私はここに今も在る。