(続き)
操体の臨床では、症状や疾患別に、治すことはありません。
つまり、それぞれにそれぞれのやり方がある、訳ではないのです。
そこに至るまでの経過や、そこに至らぬまでの方法を理解してもらい、
至らぬための指導を与えるため、操体の臨床家としての操者となるべく、
師匠を通じて学び続け、実技として介助と補助を習っているのです。
操体における臨床、それは「みちしるべ」。
つまり、道標を示すことではないか、とワタシ自身は考えています。
(続く)
(続き)
操体の臨床では、症状や疾患別に、治すことはありません。
つまり、それぞれにそれぞれのやり方がある、訳ではないのです。
そこに至るまでの経過や、そこに至らぬまでの方法を理解してもらい、
至らぬための指導を与えるため、操体の臨床家としての操者となるべく、
師匠を通じて学び続け、実技として介助と補助を習っているのです。
操体における臨床、それは「みちしるべ」。
つまり、道標を示すことではないか、とワタシ自身は考えています。
(続く)