かたち霊
佐伯惟弘
昨日は三浦寛先生の放たれた言葉から、思わぬシンクロニズムに出会う話をいたしました。
その中で登場した親友・岩下徹は、大学時代、敷地近くにあったアパートの同居人。
そこで今回は、当時、同じく同居人であった親友・鈴木啓造が自費出版した本の一部をご紹介したいと思います。
この本は、大学のクラスメート(わたしと同様、彫刻専攻)であった神谷かん氏にインタビューしたものです。
神谷氏は「愛知のピカソ」と呼ばれるほど、生命力溢れる絵を生み出す天才画家。
鈴木啓造氏も、彫刻を学んだクラスメートで、「現代俳句の騎手」としてNHK BSの「俳句王国」にもたびたび出演しその才能を遺憾なく発揮。卓越した英語能力で英語俳句の新境地を作り出しています。
また、代替医療と宗教に造詣が深く、今後の私が進むべく道に明かりを灯して戴ける人物です。
「かたち霊の原造形論(神谷かん、かたち霊を語る)<第一話 ピカソはかたち霊の芸術家>」
「カタチダマ」とは何か?
鈴木
まず、神谷さんの考える「カタチダマ」という言葉は、どう表記するのですか。
神谷
「かたち霊」と表記します。「たま」は「魂」と書いてもいいですが、より霊的な意味を込めて、言霊と同じように「霊」という字を使います。
「かたち霊」という言葉には、そのかたちが「生きている、生命力がある」とか「霊力がある、霊性に作用する」という意味をこめています。
つまり、より深く私たちの生や深層意識、運命、霊性にまで働きかける造形物を対象にした言葉です。
これから話そうとするテーマは「かたち霊の日本原形論」というものです。
僕は、日本美術が生んだ日本特有の「かたち霊」が親から子へDNAで遺伝するように、民族の血の中にあって、古代の作品から現代の作品に至るまで脈々と生きていると考えています。
もっとも、ここでは日本の造形美術を中心にしながら、いろいろなことも話そうと思うので、「かたち霊の原形論」というふうにしておきます。
鈴木
僕はそのような神谷さんの美術に関するユニークな見方は、一般の美術史とか、造形論の概念とはずいぶん異なるように思います。
また単に、美術史とか造形論に終わるだけでなくて、人間観とか文明観とか世界観とかの方向につながる話しになると思います。
おそらく神谷さんの造形論はそういうところから出てくる造形論だと思いますが、そういう解釈でいいでしょうか?
神谷
はい。
鈴木
そこで、そのキーワードの「かたち霊」をもう少し具体的に説明してもらうところから始めていただこうかと思います。
いわゆるわれわれ一般人が美術品を見る場合、特に知識人の鑑賞者が見る場合、西洋美術史に沿った作品の捉え方をしていて、それよっていろいろな作品を読み解いているんじゃないかと思います。
まあ、作品に向き合い、生(なま)な、素直な感情で鑑賞すればいいのでしょうが、そういう西洋美術的な解読装置で鑑賞している人のほうが多いと思っています。
神谷
西洋の美術史もそれなりに優れた美術史なんですけど、そのような西洋美術史的な方法論でのみ世界の美術史を見るのではなく、西洋の美術史も世界の美術史の一つであるという視点が大切だと思います。
西洋のみならず、全世界あらゆるところに同じように立派な美術史があるという視点です。
そういう意味で、いまの日本の美術界に支配的な西洋美術史的な見方というのは、特殊といえば特殊です。
「かたち霊」とピカソ
鈴木
西洋美術史の文脈においては、ふつう「近代美術」においてセザンヌ、「現代美術」ではピカソが代表作家として位置づけられていますね。
このピカソですが、僕が思うに西洋美術を一人で全部、総括するかたちで実験みたいなことをしたんじゃないかと思っていますが、そういう解釈でいいんでしょうか?
神谷
実験というのはともかく、ピカソは二十世紀の大スターですね。まあ、二十世紀はピカソが一人いれば、終わっちゃいますからね。
たとえば、ミロなんていう人がいますが、でもピカソと比べるとあまりにも才能的に違います。
(ミロを尊敬している私てしては・・・・)
鈴木
そう、だからまず神谷さんの「ピカソ論」を通じて、「かたち霊」を論ずるきっかけとしていただきたい。ピカソの作品における「かたち霊」を具体的にしながら論じていただけたらと思います。
まあ、ある程度、美術鑑賞に親しんだ人であれ、あまり美術には興味のない人間であれ、あのようなヘンなわけのわからない絵を描く人、というふうにピカソのことは誰もが知っていますよね。
その人を神谷さんがどのように理解しているかを、あるいはピカソの中にある「かたち霊」がどのようなものかを説明していただけたらと思います。
神谷
ピカソの中にある「かたち霊」というよりも、芸術家の仕事はやはり、形に生命を吹き込むことだと思うんです。
だから、ピカソはそういう点では、まさに天才で、たとえばちょっとした木切れにでも、一枚の金属の板にでも、手を加えることによって、生きたものに変えてしまうんですね。まさに、そういうのは本当の天才なんですね。
鈴木
そういう意味合いでは、ピカソは「かたち霊のアーテイスト」といっていいわけですか?
神谷
はい、そういっていいと思います。
「かたち霊」とは「生命力」?
鈴木
だから、このキーワードの文脈で語れる偉大な芸術家といったら、まさにピカソということになるでしょうね。
神谷
代表選手ですね。僕が考えている「日本の原造形」というところからは、ちょっと違いますが、ピカソはまさに「かたち霊の美術家」だと思います。
だから「かたち霊」とは、簡単にいってしまうと「生命力」なんですね。で、僕らはこうして呼吸したり、物を食べたりして生きているんだけれども、美術作品も生きているものだと思う。
もっと言えば、「生きて呼吸している」ものなのだと思います。
どうして美術作品に永続性があって、長い歴史を通じて残ってきたかを考えると、これは美術作品自体の生命力によって残ってきている。あるいは、これからも引き続き残ってゆくだろう、というふうに僕は思っています。
真の美術品は生きているものです。人間でもいきているものと死んでいるものとは、全然違うのと同様に、美術品も生きているものと死んでいるものとは違います。
かたちに生命を吹き込むという点で、ピカソという人はまさに天才です。ヨーロッパの人の考えでは「神が人間を創った」ということですが、何もないところから、美術家によってひとつのかたちができてくる。そしてそれが、生きたものになる。ある素材に手を加え「いのちを吹き込む」それがまさに芸術家の仕事です。つまり、それを拡大して言えば、芸術家の仕事は「神の仕事」ともいうべきものです。(中略)
意識的な造形と無意識的な造形
鈴木
ピカソの話題から話しを転じますが、いろいろな日常品、あるいは民芸品みたいなものの中にも、その
「かたち霊」が吹き込まれているのだと思います。
神谷
まあ。民芸品といっても、実はいわゆる民芸品ではないんですけど、かって柳宗悦さんなんかが菟集したよいものの中には、そういった「生命力」みたいなものが入っている。しかも、それは意識的な仕事ではなく、本当に無意識にそういうものが入っている。無意識のまま、ぱっと作品にできている。だから、それには、無意識のよさがある。
鈴木
意識するのと、無意識なのとはだいぶ違いますよね。美術品を作ろう、という意識ではないですよね。
神谷
そうそう、ピカソなんかは「作品を作ろう」という意識でしょ。それに対して、まあたとえば、日本の古い神社にある室町とか江戸初期に出来たお面を見たりすると、みんなほとんど無意識でつくったものなんですけど、「かたち霊」はそういう作品の中により純粋なかたちで残っています。それは一種の「氣」みたいなものなんでしょうね。(・・攻略)
<上記対談集の一部をコピーし、送って戴いた書家・前田秀雄氏(大学のクラスメート)に感謝致します>
この対談のなかでは、初めて耳にする「かたち霊」をキーワードとして、絶えることのない生命力を吹き込むことが出来る芸術家の存在意義を分かりやすく伝えてくれています。これほどまでに単純明快に言い切れている神谷氏の言霊に敬服致します。
また、臨床の立場から、神谷氏の言葉をお借りすると、真の臨床家は病んだ人の生命力を呼び覚ますことの出来る芸術家であるといえます。特に触れるという行為により、400万年前から続く人類のDNAに何らかの活力をあたえ生命力を満たすことの出来る操体。これこそ芸術。
かたちのない「かたち霊」と言えます。
この二人の対談からは、国、地域における多様な美術史の発掘、意識と無意識の関与における芸術の違い等々、興味つきないテーマが浮かんできます。
しかし、今日はこのくらいにして、明日は、この「かたち霊」にまつわるお話をしてみたいと思います。
では ごきげんよう!