昨年の秋に開催したフォーラム、その時僕が発表させて頂いたテーマ。
この発表時には、
「気持ちよさとはこうだ、そのようにお伝えできればいいのですが、それほど簡単なものではないようです」
「何故ならば、学んでいくほどに気持ちよさという概念が壊されていく、そして再構築されていくからです」
「そして楽というものは、それに対してあるというよりも、何かと比較する事ではじめてわかるもののようです」
こんな内容のことをお話しさせて頂いたのですが、
全く持って歯がゆい!という方もいらっしゃったでしょうな・・・それは感じました(笑)
確かに、
これはこうでこれはこうなっている、「だからこれでいいのだ!」とバカボンのパパのように言ってみたい。
しかしながら自称アストラには、少し緩い遊びの部分が欲しいのであります。
なお、資料としてはかなり集めていた自信はあるし、今まではそれを読んでいたのですが・・・、
「イヤそれは駄目だ!」
「オカムラは昨日のお前とまったく同じなのか?」
「日々更新しているお前の”からだ”から伝わってくる声を聞かせてやれば、それで良いんだ」
・・・と、三浦寛理事長がお話ししてくれたのです。
そして、
「書いてあるものは後でいくらでも読んでもらえばいいからな」
う〜ん、確かにその通りですね。
と言うわけで、ちょっとだけ披露いたします。
(原稿)
橋本敬三師は85才を過ぎてから、
「楽と快は違う」、「感覚の勉強をしろ」とコメントしていた。今回、このことに関して考察してみたいと思う。
(分析方法からみた場合)
『楽』
本人の動きに対して、どちらの方が動かしたときにつらいか、楽か。
運動感覚を比較対称することで判断したうえ、操法を選択する。
『快』
本人の動きよりも感覚を優先し、不快ならば無理させないで即止める。
気持ちのよさを聞きわけられたならば、操法として選択できる。
その動きに伴う感覚が楽ならば、本来は操法を行う理由がない。
(以下省略)
これは初心者には解説が必要かもしれないですね。
要するに、
操体法の創始者である橋本敬三師の行っていた”操体法”とは、
これは僕の個人的意見ではあります故に、恐れを知らず言ってしまいますが、
”初心者へ伝えていく方法としては未完成”であったと言うことです。
なぜならば、第一分析と呼んでいるこの初期の操体法方法は、
いくら正体術の流れをくんでいるとはいえ、はあまりにも似通っているのです。
他力の動きや、テクニックとしてその方法を学んでしまえば、
後から訂正するのが非常に難しくなってしまうこともあります。
ですから、学びはじめの頃には頭を使わないで、感覚を育てていってください。
だからこそ 『快適感覚を聞きわけて味わう』というキーワードを当てはめることが自然なのであります。
理にかなっていない理由とは、橋本敬三師の説く哲学思想そのものが、
”からだ”に感じ取れるように活かされているのか、と言えば活かされてはいないのです。
三浦寛理事長は、
「臨床家の要求に適うとは、からだの要求に適うということである。
すなわち、からだの要求に適うということが臨床家の要求に適うということである」
・・・と教えてくれました。
つまり ”からだ”は元々備わって生まれてきていることで、
本来であれば、全てまかなえると言うことなのです。
この条件を満たしているからこそ、”救いがなるイノチ”なんですよね。
それでは、このイノチの源流を遡り、初詣、お墓参りに言ってまいります。
ありがとうございました。
**以下省略の後、つまり発表前に作成した一部の資料です(参考程度に・・・)**
(要求感覚から考えてみた場合)
『楽』
“からだの意志”の要求とは別に“本人の意志”で要求される場合がある。
それほど要求はないけれども、操者の要求に対して表現してくれる事もある。
『快』
“本人の意志”を関与させないで、“からだの意志”を最優先することができる。
感覚を聞き分ける過程で、気持ちの良さをききわけ、充分に満足したい場合は、
快適感覚委ねて、味わいながら“からだ”の要求を満たしていく事になる。
(バランス感覚との関連性)
『楽』
どうしても相手の意識、操者の意識が関与してしまうので、
“からだの求めるバランス”的には、やり過ぎたり、満足出来ないこともある。
『快』
“からだ”は、快的感覚を味わうことにより、本人の無意識に対して働きかけ、
無理がなく、様々な流れをも調整するバランス制御装置が働く。
(快適感覚との関連性)
『楽』
本来、この状態そのものが、“ニュートラル”状態である。
『快』
イノチの方向性とは、常に不快を認識した時点で変化を要求する。
その要求こそ快適感覚であり、快に従うことで満足した状態を得られる。
(臨床を行う上での関連性)
『楽』
楽を追求していけば、パターン処理に答えていく臨床に傾倒しやすい。
また、患者が楽を快だと勘違いして学習してしまえば、
“からだの要求”とは異なってくる可能性が大いにある。
『快』
快はパターンを嫌う。それは無意識が関与している為に、意識では得られない。
それは、本質的なイノチそのものとの一期一会の世界観である。
操者と患者共に、快による共感的創造の営みに、喜びに通じてくるものである。
(からだとの関連性)
『楽』
楽な動きにからだは反応しない。
反応したとしても本来の満足感は得られない。
『快』
何らかの歪みがあるときには、
“快”そのものが“からだ”の動きと一致してくる。
それを理解し、イノチの意志を充分に生かしきれる操者が、
“からだ”の要求を受け取っていくことができるのである。
岡村郁生