東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

頭で考える快と、からだに備わっている快

今週から見ていれば、あなたの話は抽象的で空想的なんだよな〜と言わないで、
現実的な今回帰省したお話、そして臨床の話でも一つ聞いてやってくださいまし。

寅年の年男で、男女関係なく友人のとても多い、愛煙家で愛酒家の弟と話をしていた時です。
「兄貴はサァ、新年を迎えての抱負はなんなの?俺の友人にも必ず同じ事を聞くんだけど、
 以外と曖昧な答えだったり、ただの希望だったりして、そんなこと考えてないって言うことも多くてサ」・・という。
僕はなんと言っても三浦理事長、同志の皆様と切磋琢磨しながら操体を学ばせているのですから、
そんなことばかり考えているので勿論、答えましたが・・・。
後で考えてみると、確かに操体を学ばせて頂き、臨床をさせて頂けるということは、本当にアリガタイなあ・・・と。
そして抱負と言えば、
ビックリしたことに父親も還暦を過ぎてのチャレンジとして、ヘルパー二級を取るべく若い人に混じって猛勉強していた事です。
父親が何かを学んでいる、新しき道を考えて時間を大切にしている姿はとても嬉しかったのです。
(実は私も更新制になったケアマネを今年に一時失効させてしまうのです・・が、
 本来学ぶ資格というものは、それが理にかなっていると思う。必要な時に研修させて頂く更新制というシステムは僕も大歓迎!)

父親の文字を連ねたその勉強資料の中に、ある一文を見つけた。
介護の先進国と言われている北欧で生まれた考え方にある、人間らしい暮らしとは一体何なのか。
本人の生き方そのものの問題を照らし、身体障害者と共に、健常者と同様によりよい生き方を構築していく考えかたとして、
ノーマライゼーション”という言葉があります。

確かに現在の日本においても、十数年以上前とは随分と様子が変化しましたよね。
昔はリハビリ・介護の分野でも、回復させる目的そのものや、一般的な社会の流れにしても、
ADL(日常生活の動作全体)であったのが、
QOL(生活の質を向上していく)事へ進化しています。
バリアフリーデザインから、ユニバーサルデザインに更新されたように、
リハビリテーションや介護には今や常識となり、生活の”場”においてこれからもより根付いていくのでしょう。

その中心となる考え方には一人の人間として、家庭的にも、社会的にも 
”自分の存在を見つけ出せること”が、何よりも重要になってくるのです。
教科書的には、
・生命の質ー病気や身体の障害がないこと
・生活の質ー動作や行動などで自立した生活を送ることが出来る。
・人生の質ー社会の一員としての役割をもって生きること。
・生きがいー満足感につながってくる。

つまり、人間らしく生きる権利、そのものの回復が目的になったと言う訳ですネ。

ならばこれからの時代、是非とも操体を学んで頂きたい!!

日常の様々なクエスト(課題)をクリア(超える)するには、少しずつ経験を得て、大きな ”質的変化”を起こし、
日々降りかかる様々な問題さえ、”困難”ではなく”祝福”として受け止めて自身の学習をはかる、
多面的な方向で運用・応用可能となるスキルを、ヒトとして根本的にレベルアップ!

私達一人一人経験の積み重ねで分かるものとは、自分自身の積み重ねていた歴史にある。
何かあっても、ピンチの時こそチャンスと捉えていけば、結果的にゆとりという経験値が生まれる。

その為にはやはり、自然法則に適うとはなんだろうか・・・となりますね。

僕自身の幸運は、操体を学んでいる同志、操体を学んでいく事において知り合うことの出来た仲間が出来たことなのです。
本当に不思議なのは、操体を学ばせて頂き出会った東京操体フォーラムのメンバーは、動物の中で最も好奇心旺盛な人間らしい人達で、
立ち向かうべき荒波、そそり立つ高い山、有名な困難の代表?虎の穴も龍の穴も、穴というアナが大好きなのです(笑)
そしてきっと今も、常にこれからも、
操体操体法の創始者、橋本敬三師のDNAを受け継いだ三浦理事長と共に学ばせて頂く同志一人一人は、
”からだの意思に適う生き方” ”イノチに調和した生き方”
そのものを学び、それに適うように、自分自身でそれぞれに学び続け、一つ一つを可能にしていくことでしょう。

ですから是非、今年も操体の門を叩き、開いて体験し、共に学んで頂きたいのです。

さて・・・相当長くなってしまいましたが、臨床の記録から一つ紹介させてください。 
昨年末、母親と中学二年生の元気がよい女の子です。

二週間前にテニスのレッスンをしていて、転倒。
整形外科で前距腓靱帯断裂と診断、レントゲン写真では異状が写っておらず、杖とサポーターと消炎鎮痛剤を処方、
杖を突いて初日から三日間はしっかりと指示通り ”RICE”をしていたのだが、
二週間ァ経過したが、いまだに内出血少し残っていて腫れも少し残っているという。(確認はしましたが確かに腫れていた)
少しずつ運動を再開しても構わないでしょう、と担当医に言われたのでテニスを再開するもやはり痛みがあるという。

そこで担当医に相談すると、
特に経過に問題はない。あまり痛いのであればテニスはしないで安静にしていた方が良いんじゃないかな、とのことであった。
本人は学校の陸上の授業も、テニスのレッスンも大好きで楽しくて仕方ないらしく、心配なければ休みたくないらしい。

ちなみにこの時もそうだったが、
母親がペラペラといくらしゃべっても僕のポリシーとして、その症状を訴える本人である子供と話をする。
子供は親と来院した時に親が説明してくれると思っているから、そこでまず親を離してしまうのだ。
すると、どんなに親が心配していたとしても、
結局これは自分自身の問題なんだな、と自覚するし、僕はそれをして欲しいのだ。

まずそこで行ったことは、足踏み、屈伸、歩いてもらうこと。これでは痛みが生じない。
次に、その場でつま先立ちをしてもらったりジャンプは出来るか聞いてみた。
つま先立ちは少し痛みがあり、ジャンプは怖くて出来ない。
杖を突いていたせいだろうか、頭とからだも斜めに傾いて見える(稚拙な描写ですね・・笑)

ナルホドと、仰向けになって手をついてもらい、身体を半分起こした状態になって足関節の内反を行うと痛む。
そこでチョトだけ遊ばせて頂いて、上下交差している手関節の皮膚を擦診してみる。
すると、本当に痛い!すごく痛いと言ってビックリしている。
そこから五分くらい手首に皮膚の操法をおこなって、もう一度確認してもらったが、今度は仰向けでひねっても痛みがない。
なので一度立ち上がってもらうとジャンプも出来るというが、まだ痛みが不安とのこと。
次に、第二分析で母趾球の踏み込みをしてもらうと、『ウワ〜気持ちが良い〜』と気持ちの良さを聞きわけて味わっている。

僕の経験からすれば一般的に、大人に気持ちが良いですか?と聞いても、
「ウワ〜気持ちいい〜」と言ってくれる方ばかりではない。(”からだ”は別にして)
多いのが、「そうですねェ楽ですね」等と言われることが多い。
だから、「楽の中に気持ちの良さがありますか?」と聞くことで「そうですね、あります」という。
しかし、子供は比較的すぐに気持ちの良さを感じてもらえるのである。
だから、何が起こったのかという説明を、常に求める小難しいことの好きそうな大人に、
「ハハァ、御主が頭の切れることは重々承知した、されば一時、童(わらべ)に戻ってくださいませんかな」とでも言ってみたいナ。
それはともかく、
この女の子の”からだ”は、同じ拇趾球の踏み込みで上肢の捻り具合、骨盤の捻り具合を変えて三回ほど味わってくれた。
見えない何かに背中を押された気分になった僕は、腫れが引いているのを確認。
「ウン、無理しなくて良いけれど、出来ると思うから・・・」
「じゃ〜張り切ってスキップして、反復横跳びして、連続ジャンプもしてみてね」
と言うと、張り切ってステップを見せてくれたのでした。

最新の脳科学および臨床研究で、”痛みそのもの”を脳がつくり、それを維持させているという現象がある。
つまり、不安が痛みを生み出し、無いものをあると認識しているのだから、痛みを受容していく過程そのものに意味がある。
それを、患者のみならず治療者までもが、”痛みそのもの”に囚われていてはそこに救いがないので、救われないだけなのだ。

橋本敬三師がご健在当時、温古堂で患者さんにお話してあげたように、もともと、”救いがなるイノチ”なのだから。
本人の痛み、報いともいえる根っこを共感してあげること、そのうえで本人の対処法を指導してあげられたら良いんじゃないか?
臨床と一体何か?
一つにそんな試みを、連ねて耕してはいるのである。(具体的には、般若身経をはじめとする操体の同時相関相補性等)

つまり、不安のもとであるストレスの原因を知ることも、本人にとっての救いなのである。
ただし、”からだ”自身にそのような認識はない。(ここがわからないからコンガラガッチャウ〜のだ)

要するに、その心配とは何を元にして心配しているのか、自分自身でも知ることだ。
あらゆる治療者は、何を根拠にして相手に伝えているのかを知ることだ。
親が色々心配することは、必ずしも良い結果を生むとは限らないことを僕は知っている。
親は親でも、イノチそのものをを生み出している親神様に、全てお任せしておけばいいのだ。

それは、脈々と二〇万年もかけて受け継がれてきた、一代も途切れていない人間そのものの自然、つまりイノチにある。
それをさも自分一代で作り上げたと言うテクニックの方が上だとか、機械の検査所見で全てまかなえる、なんて考える方がどうかと思う。

シェイクスピアも、ハムレットに言わせている。
「仕草に台詞を、台詞に仕草をあわせてくれ。 ただくれぐれも自然のほどあいを超さないことだ」
「何事も度が過ぎれば芝居の目的に外れるからな、芝居というのはもともと昔も今も変わらず、
 言わば自然に向かって鏡を掲げ、善は善なりに、悪は悪なりにその姿を写して時代の様相をそのまま見せるもの。
 ・・・さ、そこで度が過ぎると、また力の足りぬ場合でも、見知らぬ客は喜ぼうが、この道の通はうんざりする・・・・」
 (シェイクスピア名言集、鈴木幸夫訳、平凡社より)
私もうんざりしたくないし、自然の程合い、自然法則の応用をさせて頂くことを外れたくない。

酒は甘口もありますが、たまには辛口も舐めたくなりますな・・・。
と言うわけで、今も、今年も、操体を学び、私は私の信じた道を行くのみ。
自然を活かす親神様、ありがとうございます。


*注:親神様と言う言葉は、橋本敬三師の書き残された一文を、三浦理事長に頂いて十年ほど前に初めて知りました。


岡村郁生