(カチャンカチャンとあまり入ってないランドセルの音)
「おはようございま〜す」
「おはようございま〜す、いってらっしゃ〜い」 空気が肌に染みる日の朝にこんな挨拶。
茅ヶ崎の小学校は爽やかに今日から始まります。
そして、「はやく勉強(復習)なさい」「宿題(課題)終わったの」
私も親からミミにタコができる位聞かされていた(本当は、言ってくれたのデス)このフレーズ。
最後には「しっかりできる時にやらなければ、自分が困るんだからね」で締める。
最近も何故かよく耳にしたのだが、
あまりにも小さい頃の自分に行動が似ているので、僕は本心で叱ることができない。
「やりたくなければやらなくて良いけれど、しっかりと自分で、自分のおしりを拭くことはしなさいヨ」
経験上、そんな言葉を話ししっかり言い聞かせる。
すると案の定やることはやる?長女が宿題を終えるのには今日になっていた(笑)
後から後悔することを考えて、後ろ髪を引かれる思いで・・・云々といいますが、
ある患者さんから、「チャンスは前髪って言うのよ」と教えて頂いた。
ナルホド、ありがとうございます。確かに伝わる気持ちが良い言葉だなァと感じた。
できることを準備万端整えておくには、伸びている髪の毛のように、前髪を飛ばせばいいのだ(笑)
後からではなく、前髪を駆使してでも、可能なチャンスは自分自身が引き寄せるのだと言うことだろう。
さて、
心を亡くすと書いて忙しいと書く。
つい言葉として使ってしまうことも多いのだが、言霊として考えてみると、あまり連発するのもどうかな?
家族や気の許せる友人と一緒にいる時は、
気が緩んでしまい、甘えているんだろうと思うが、長女や次女が何か僕に話しかけてくると、
つい「今パパは仕事をしているでしょ、忙しいんだから後にして!」と使っていた。
それが、お正月休みの時に長女の心を聴いてしまい、自分で気がついてハッとしてしまったのだ。
心の声・・・「パパは忙しいから後にしてって言うけど、後で聞いてくれたことなんてそんなにナイじゃん」
それを直接言わないで、心の声で教えてくれていたことに感謝するのであった。
”からだ”と関わっていくことで本人以上の情報が伝わってくるし、教えてもらえるので有り難い。
その時の状況で考えても仕方なかったのだが、
僕自身それを口癖のように母親から言われた時期があって、大げさではあるけれど、
自分という存在そのものを否定されたように感じていたことを思い出せたのだ。
きっと、”からだ”に口が直接ついていたら・・僕は、叱られっぱなしなんだろうなァ。
そう言えば、
テレビの録画でたまっていたあるジブリ映画の中で、主人公の魔法使いがとても忙しそうにしていた。
日々戦争に参加して、帰ってくるとグッタリして休んでいる。
そして、大きなショックを受けると肉体そのものが溶け出してしまうのだ。
普段の本人と全く異なる本人となって肉体を駆使していることが、忙しさの象徴となるのかもしれない。
それを知ってのことか、最後にその主人公は”亡くしていた心”というものを自分のカラダに取り戻す。
その後こう言うのだ。
「ウッこりゃひどい、からだが石みたいだ・・・」 そこでヒロインは言う。
「そうよ、心って重いものなのよ」・・・と。
このようなメッセージを監督がのせているからこそ、本人は気がつかずとも”からだ”は感じ取り、
ジブリは単なるアニメ作品ではなく、大人にこそ響く映画として愛されるのだろう。
それはともかく、一体何が重いのだろうか・・・・。
そんなわけでしつこいが、テレビを見ない僕である。
春日さんのトゥースも知らなかった(汗)だから一気に追いつこうと思い?
年末年始にお笑い番組を見ていたのだが、そこで感じたことがある。
以前は気にならなかった事でも、”からだ”が反応を示すがあるのだ。
(「おい!Oすぞ」「お前Oねや」「Oりたいだけじゃん」とかはね〜イヤだなァ)
そもそも”皮膚”の感覚があり、”からだ”は瞬間で感じ取ることができる。
だからこそ人種を問わないし、ただ言葉で伝わる情報より、多くのものを雰囲気で受け取るのだ。
(昔のドリフコントや、チャップリン無声映画、最近の漫画ならバガボンドなどは良い例だ)
そもそも食べ物を粗末にしてコントにすると苦情がくるらしいが、言葉ならば食い散らかしても良いのだろうか?
そんなの関係ナイ?
誰がどう見ようと、どう思おうと、自分の好き勝手に生きるのが俺の人生ダ〜。
そんなの見なきゃ良いじゃない、思わなきゃ良いじゃない、人(カラス)の勝手でしょう〜では、通らないことがある。
確かに、人間は自由に生きるコトが出来る。それは確かだ。
だからこそ、なにをもって自由なのか?を知って欲しい。
自由と言う言葉の勘違いや、意味の履き違いをしては自己責任が伴う。
昔から躾という大切な伝統がある日本国に生まれ、自分を律することの意味を知り、それを成す。
心を亡くしてしまっては、人の姿をしているだけの生き物である。
自然と調和して、自然の中でつながっているからこそ、人間なのだ。
ふと、そんなことをいつも考えている。
日本の国は一時、ゆとり教育というものを勘違いしてしまった。
本来のゆとりとは、時間の中に存在しているわけではない。
ゆとりを生み出すもの、それは一体何なのか。
それは、イノチが見せてくれるものを噛みしめていけばわかる。
まず、味わうために感じ取ること。それをゆっくり学んでいくこと。
全てはつながっている。
そうなのだ。実相から生まれるからこそ、一生をかける価値になるのであろう。
岡村郁生