前日の続き
瞑想はクンダリニーやチャクラをもち込まなくても十分に説明できる。そんな必要はまったくない。瞑想そのものはクンダリニーやチャクラとは全然かかわりがないのである。瞑想はそれに関係していないので、クンダリニーやチャクラを持ち込むことによって葛藤を生み出すことになってしまう。瞑想は直接説明できるものであり、クンダリニーやチャクラにかかわる必要はない。瞑想に入ってゆく中、もし通路が滞っていたら、クンダリニーを感じるようになるかも知れない。そして次にチャクラが現れてくる。しかしそれは完全に不随意であるということを憶えておく必要がある。自分の意志など全然必要ではないということを絶対に憶えておかなければならない。その道が深まるほど、ますます不随意的になってゆく。
たとえば、自分の手を動かしてみる、これは不随意的な道である。しかしながら自分の血液は動かすことはできない、もちろん試すことはできる。何年にもわたる訓練をこなして、血液循環を意のままにすることは可能である。ハタ・ヨーガにはそういう技法がある。ヨーギは実際にそれをすでにやってきている。それは不可能なことではないが、不毛なことだ。ただ血液の運動を制御するためだけに何十年にも及ぶ訓練をするというのは、無意味であり馬鹿げている。制御からは何も創造することはできない。血液循環は不随意的な機構であり自分の意志を必要としない。たとえば食事の際、食物が体内に入った瞬間、自分の意志は必要としなくなる。肉体組織や肉体機構がそれにとってかわるからだ。肉体の組織や機構は必要なことを何でもやってくれる。また眠りも、生も、死も随意的なものではない。それらもみな不随意のメカニズムである。クンダリニーは、それよりなおいっそう深い。死よりも深く、誕生よりも深く、血よりも深い現象だ。なぜならクンダリニーは第二番目の身体、エーテル体の循環系だからである。血液は肉体という生理学上の身体の循環系、クンダリニーはエーテル体の循環系であり、徹頭徹尾、不随意的なものだ。ハタ・ヨーガの行者でさえそれを随意的にどうこうしようということはできない。
瞑想に入るとエネルギーが動き出す、この内側のエネルギーが上昇しはじめるとエネルギーの流れの変化を感じる。それはさまざまな感じ方で感覚できる。その変化は生理的にも感じられる。一般的に言って生物学的には「頭寒足熱」は健康のしるしとされている。その反対の「頭熱足寒」が起こったら、その人は病気だということになる。しかしクンダリニーが上昇してくると、病気の時と同じ現象が生じてくる。実際に足は冷たくなってくる。健康の目安である「足熱」という現象は性エネルギーの下降にほかならない。クンダリニーという生命エネルギーが上昇することによって、すぐその後に性エネルギーが続いていくのである。性エネルギーは上に向かって流れていき、やがて「頭熱足寒」が始まっていく。生物学的には頭より足が温かくなる方がいいのだが、霊的、精神的には足がいっそう冷えてゆく方が健康的だ。それはクンダリニーという潜在的な宇宙エネルギーが上昇しているというしるしなのである。
操体の臨床においては、からだの無意識に問いかけていき、その無意識の発動から「快」を発することになる。「快」もクンダリニーやチャクラが発現するのと同様に不随意のものである。からだの無意識に問いかけた瞬間、自分の意志はいらなくなる。からだの無意識が必要なことは何でもやってくれるのだ。操体臨床のあるべき姿とは無意識に問いかけるという不随意的なメカニズムなのである。
明日につづく
8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体セミナー in スペイン」開催