昨日の続き
七番目のからだはニルヴァーナ体という。ニルヴァーナとはサンスクリット語で「涅槃」という意味であり、真理、絶対なるものは七番目のニルヴァーナ体のなかにある。ニルヴァーナ体は最後のからだであるゆえに、そこにあるのは創造と破壊ですらない。そこにあるのは「存在」と「非在」あるいは「顕在」と「非顕在」と言えるものが二つの息である。そのいずれをも自分と同一視してはいけない。
ニルヴァーナ体の言語は存在と非在である。非在の言語は出息の言語であり、その非在の言語から語られるのは「実体は空だ」と言う。一方、存在の言語は入息の言語であるがゆえに「創造こそ究極の実体だ」と言う。これが仏陀とイエス・キリストの表現の違いだ。入息を選ぶと、肯定的な用語を使い、出息の方を選んだがゆえに否定的な用語を使う。しかし、もうひとつの選択がある。それは「真理」だ。真理は語ることができない。どうしても言葉にするなら「絶対存在」とか「絶対的非在」と言えるが、真理はいかなる宗教にも属していない、何故なら、空想に支配された「神」というのは、ひとつの仮説であり、虚構であるからだ。真理を知るには、空想を完全に避け、現実の実存と実存の接触に生きなければならない。ニルヴァーナ体は、これらをも超えている。なぜなら無身体だからである。
ニルヴァーナ体は存在か非在か、肯定の言語か否定の言語か、いずれかを選ばなければならない。そこには二つの選択しかない。否定的な選択をすると何ひとつ残らない。今ひとつは肯定的な選択、これはすべてが残る。ニルヴァーナ体では、人間に関する限り、そして世界に関する限り、生命エネルギーは多重次元の領域の中で顕われる。生命があるところ、どこへ行ってもいたるところに、中に入ったり、外に出たりするプロセスがある。生命はこの両極性なくしては存在できない。それだからこそ、プラーナとはエネルギー、宇宙エネルギーと言われているのである。
我々は、はじめに肉体の中でそのプラーナに親しむ。プラーナはまず肉体の息として顕われる。それから、他の形態をとったからだの息として順々に顕われる。「感化」→「磁性」→「想念」→「生命」→「創造」そして「存在」。我々がそれに目覚めたら、常にそれを超越して真理に達する。その真理に達した瞬間、そのからだを超越して次のからだに入る。肉体からエーテル体へ入り、それから次が続いてゆく。超越しつづけていってニルヴァーナ体まで来ても、そこには、まだ依然として無身体という「からだ」がある。が、ニルヴァーナ体を超えると、そこは「空」である。そのときには純粋になり、我々は分裂していない。そこにはもはや両極性はない。そうなったら「不二」だ。そうなったら「ひとつ」だ。その意味するものは、大宇宙の真理と個人の内奥に存在する真我とは同一であるという根本原理に目覚めることにある。
操体には「同時相関相補連動性」という理論がある。これは健康の回復や精神の安定といった心身の活性と目覚めに卓越した効果が証明してくれる。そういった効果はどのような原理によって生じ、現れてくるのであろうか。それは大自然の理法に基づき、波動に共鳴、共振すること、すなわち、からだと心が生命の法則と一体となって完全に調和していれば病気になることはないのである。宇宙的な広がりをもつとさえ言われている、からだと心の相関性のからくりが、近い将来において、操体によって明らかにされると、私は信じている。
一週間にわたって長々と、しつこく、呼吸の出入りと七つのからだ、そして生命エネルギーについて、おつき合いいただいた。明日からは身も心もすっきりした小松さんによろしくお願いしたい。
新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。
11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。