東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

天才その1

僕が担当している今週のブログも折り返しとなる四日目になりました。今日もお付き合いよろしくお願いします。
僕は今、縁がひろがり野球をトレーナーという形で少年野球から高校野球を中心にサポートをしています。また冬の間は、スケートもサポートさせていただくことがあります。帯同をしていると沢山の子供たちの親と話す機会が多くなり、会話にでてくるのは○○君は才能があるとか、特に天才という言葉には引かれるようです。たしかに最近のニュースでは、スーパー中学生とか天才少年・少女という紹介を耳にする機会が増えている気がします。本当に天才なのでしょうか?周りと比較して結果がでていると、周りが勝手に騒いで天才を作っている所もあるような気がします。現代に天才とは結果がすべてという感じがします。
才能や天才とは何なのでしょうか?調べてみることにしました。
まず才能とは、日本語で「素質」といえば生まれつきその人が持っている才能や潜在能力などを意味することが多いようですが、中国の「素質」を日本語にするなら「常識」「礼儀」「品位」などが意味合いとすれば近いと思います。日本で言うなら「育ちの良い・悪い」と言うような、後天的な意味合いを「素質」と呼んでいるようです。
才能の開花のポイントは、自分がこころの底から夢中になる大好きなことを極めていくことで開花するとのことでした。
天才とは、まず天才の定義ですが、「万人よりも遥かに優れた能力を有し、その能力を活用して社会に認められた人」を指すそうです。エジソンが残した有名な言葉があります。「天才は1%のひらめきと99%の汗である」という言葉がありますが、この言葉をそのまま解釈すると「天才でもたゆまない努力が必要」ということになります。ですが実はこのエジソンが残した言葉の伝わり方(解釈)が間違っていたそうで、この言葉の真意は、「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄である」というのが正しいそうです。ひらめきとは直感(インスピレーション)を意味すると思いますが、直感は誰もが持っているものでもあると思います。誰もが天才の要素を持っていて、頑張るとか気持とか自我というものでなく、感覚である特殊感覚の五感(六感)を研ぎ澄まされた状態なのではないか思います。
よく天才といわれる偉人の方々には科学者や芸術家が多いこともあり数学的天才と、芸術的天才の2つのタイプに分けてみました。
数学的天才は計算速度や記憶力がとても高く、計算式を使わず右脳の機能をフル活用して頭に描いたイメージ(絵や形や記号)で計算処理するそうです。記憶に対して天才といわれる方は、言葉の概念や数字などを覚えるのではなく見たものをそのまま画像として記録し、頭の中で記録した画像を正確にイメージして、それを心の目で見ているというように、起きてはいるけど夢を見ているといった感覚のようです。
 芸術的天才は感性や思考が突出しているタイプで、芸術家をはじめ思想哲学者(哲学者研究者を除く)などが含まれます。この種の天才達はとてもよく似た共通点があり、精神的な問題を抱えている場合が多いのが特徴だそうです。理由は明日のブログでふれてみたいと思います。天才的な演奏者は音が音階ごとに色分けされていて、また音の強弱も色の濃薄で分けられ記憶されているようです。また、演奏している音を感じるとき、普通の人は耳から入ってきた音(情報)を脳で処理して聴いていますが、天才的な人は聴覚だけではなく、皮膚に伝わる振動(感覚や触覚)なども音の情報として受けとり、総合的に判断して音(音楽)を聴いているとのことです。
 いわゆる天才と共感覚を有している場合が多いようです。共感覚については2010年10月5日の実行委員ブログを参照して下さい。
 野球の天才と言われている長嶋茂雄さんの野球指導の内容をみると、現巨人監督の原さんが現役の時、長嶋さんの打撃指導では「腰をグーッと、ガーッとパワーで持っていって、ビシッと手首を返す。ビューと来たらバーンだ」と指導を受け、少年野球教室では「球がこうスーッと来るだろ。そこをグゥーッと構えて腰をガッとする。あとはバァッといってガーンと打つんだ」と指導し、子供たちは「???」となったというエピソードがありますが、これも長嶋さんがからだで感じた感覚を表現するとこうなるのだと思います。
天才とは天(神様)からいただいた、からだの感覚を最大限に活かしている状態で誰もが生まれながらに天才の素材をもっているような気がします。それをありがたくどのように使わせていただいているかではないでしょうか。
からだの能力や感覚は未知の可能性が秘められているような気がします。僕は操体を通して感覚について学ぶ機会が多くなっていますが、学ぶにつれてからだにも環境にもすべてに感謝する気持ちが大きくなっているような気がします。「ありがとうございます。」