症状・疾患に捉われないというのが操体のスタイルであるが、最終日はこういった「病気」について検証してみる。
パソロジーという言葉がある。これはギリシャ語のパトスとロゴスからできた病を論ずる学問のことで、すなわち病理学という意味になる。そして普遍的な現象としての病気について膨大な研究を扱う医学は、それぞれの病気をその特徴に従って分類し、説明を試みることになるが、これを臨床病理学と言う。
健康というのは、からだのごくあたりまえの状態を意味するものだが、その状態が変わることによって病気という名が与えられる。病気になると、原因や組織に与えた障害、そして症状や経過などに従っていろいろな異なった特徴を現す。そこで臨床病理学では、病気を「炎症性疾患」、「変性疾患」、「代謝性疾患」、「内分泌性疾患」等に分類している。
この健康というのは、大宇宙によってすべての生き物に与えられた天与の権利であるが、それには自然の法則に従うという解除条件付の健康契約をしているということになる。ようするに自然の法則に従わなくなると、健康が白紙解除されるということだ。野生の動物などは肥満や動脈硬化で悩んだりすることがなく、かなりの傷を負ったライオンですら、ほとんど炎症も起こさず、消毒剤や抗生物質、それに傷口をぬうドクターもないのに早く回復してしまう。何故なら野生動物は本能によって自然の法則に従うからであり、我々人間はそれをしないので病気との親交がますます深くなっていくのである。解除条件こそついているものの生まれながらにして健康という契約が既に成立しているのにもかかわらず、自然の法則を無視することによって契約不履行を原因として、健康契約の白紙撤回解除を行使される羽目になる。
すべての病気には、「人工的な環境」と「不健全な生活様式」と「精神的な不調和」というこれらの要因が絶えず働いているところで起こっている。このような共通要因からすべての病気には共通した特徴がある。からだの使い方や動かし方といった不健全な生活様式で人工的な環境は、種々の病原菌をはびこらせる下地を作り、突発的な炎症の原因も増加させてしまう。
一度炎症が起こると、からだはその炎症の原因を取り除こうとして生体エネルギーを集中させるが、不自然な生活のために、そのエネルギーが低下しているので、炎症は慢性化し、その組織器官は変性に向かっていく。この器官の変性は有機生命体の活性低下を意味し、からだは全般的に弱くなっていろいろな病気にかかりやすくなる。内分泌腺はこうしたからだのアンバランス状態を修正しようとして過度の力仕事に精を出し、やがては疲れ果てて、そのつけが再び活性低下を助長する。こうして追い込まれたからだにさらなる炎症が加わるといよいよ一巻の終わりとなるのである。
このような病気に対する健康について、最近多くのことが言われているが、健康の意味や健康を達成する方法については、かってないほど大きく混乱しているように思われる。しかし健康は、常識的に考えられているのとは逆に、実際には健康は我々が為しうるものではない。健康とは、我々がどんなこともしていないとき、我々が完全に無為自然な境地にあるときに自然発生的に起こるものである。これはどういうことかというと、自然の法則に適った生き方をしているということだ。
我々が「健康になる」と言うとき、それは健康が起こりうる状況をおそらくつくれるだろう何かの健康法や治療法を行なっているということである。けれども、いかなる技法も薬も健康になる方法そのものではない。それはただ単に自然発生的に起こりうる状況をつくり出すだけのものである。一口に健康法や治療法といっても、種類がたくさんあるので混乱してしまうのが現実だ。
例えば西洋医学の医術、東洋医学の漢方や種々療法など・・・・・・。それらはそれぞれ独自の技法を持っている。しかし自分にふさわしい技法の決め手は、ただ試してみるほかはない。それは、その技法の何かが自分にぴったり感じられたり、何かが自分にとって効き目があったり、その時にはおのずと見分けがつくものだ。だがそうなってくると、かたっぱしから実践していかなければならなくなる。早い時期にめぐり会えばよいが、そうでないと、無数といっていいほど多くの技法がある中では、時間切れになってしまい、病魔にのみ込まれ、生体はもうジエンドということになりかねない。
そこで万人が適う共通の健康法や治療法というものがもし、存在するなら願ってもないことだが、果たしてそんなものがあるのだろうか、あるにはある。未病医学や治療医学として自然法則を根拠にしたSOTAIなるものがそれだ。健康のことや治療のことを考えずとも、自然なからだの使い方・動かし方や自然な心の在り方から不健康を消滅させることなく、それを健康に錬金させることができる妙法である。
やはり私にとって操体とは終わることのない永遠の検証であることに想いを検めた。