昨日も書いたように、操体には「顕教」のように「一般の人が生活に活かせるような広くあまねく健康に活きるための基礎」であるもの(愛好者、操体Lover向け)と、私達が三軒茶屋ターミナルビルで日曜朝早くから限られた弟子達で、三浦寛師匠の「超最先端」の操体を学んでいるのは「密教」的である。
一般の大乗仏教(顕教)が民衆に向かい広く教義を言葉や文字で説くに対し密教は極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する点に特徴がある。
「秘密の教え」という意味の表現が用いられる理由としては、顕教が全ての信者に開かれているのに対して、灌頂の儀式を受けた者以外には示してはならないとされた点で「秘密の教え」だともされる。
世の中の操体実践者の9割は前者であることは否めないし、それはそれでありがたいことだと思っている。健康な人が病気にならないための『未病医学』としての操体はまさにそこにある。
しかし、いつも思うのは「愛好家」は「責任」がない。橋本先生の本を読み私淑しているにすぎないし、殆どは師資相承ではない。教室の先生と生徒という感じである。
また、未病医学として広めるというエリアを守っていればいいのだが、操体臨床家の領域を荒らすことがある。無責任者に臨床エリアを荒らされ(操体は効かないとかよくわからないとか)てはたまったものではない。
橋本先生は「自分は組織の長にならないよ」と言ったことが、いつの間にか「組織を作っちゃいかん」と言う話になっているし(小さい組織はゴマンとある)、「操体には資格は必要ない」という人もいるが、橋本先生は、小崎順子先生に「操体の治療をするんだったら、柔道整復師の免許を取るといい」と言われたそうだし「保健師さんに操体をひろめてもらいなさい」と、おっしゃっている。
勿論、資格は必要ないのだが、無資格では「健康体操」や「操体法教室」での指導は可能であっても、少なからず、人様のからだを診せていただく臨床家ならば、医療系の資格や、運動指導系の資格、対人保険に加入するなど、ある程度の責任は必要なのだ。
愛好家の方に共通しているのは「操体ってみんなのものでしょう(だから勝手にやってもかまわない)」という言葉である。これは間違いない。責任がないから、勝手に好き放題やっているのだ。責任がないから、操体を食い散らかし、飽きたらポイする。
先日、関西のある方が「第一分析、第二分析、皮膚の操体など」を「本を読んでもわからない極意を伝えます」というキャッチコピーで、操体の講習をやっておられることを知った。コピーだけを見ると、どうみても三浦先生の弟子か受講生のようにみえる。しかし、今現在弟子の中で単独で第二分析第三分析(皮膚へのアプローチ)の講習をやっている者はいないし、三浦先生も知らないという。
セミナー会社を通じてやっているようなので、早速セミナー会社に問い合わせ、この先生が一体誰に操体を習ったのか教えて下さい、と頼んだところ、ご本人からメールがあった。
「操体はみんなのものではないですか?教えるのに許可がいるのですか」というような事が書いてあった。
教えちゃいかんとは言わないが「第一分析、第二分析」という言い方は、三浦先生が創案した名称で、第二分析、第三分析(皮膚へのアプローチ、渦状波)は先生が体系化したものである。操体は勿論開かれているが、第一分析、第二分析という言い方、第二分析を「一極微」(いちごくみ)と称するのは私達一門のみである。自分の講習に使うのだったら、一言著者に断るのが礼儀であろう。
さらに彼女は、操体を正式に習ったことがなく、操体法教室で操体を教えており、本を読んで勉強したというのである。
彼女は第二分析を教えていると書いてあったが、第二分析は本を読んだだけでは修得できない。それは指導している私達がよくわかるし、人様に指導できるようになるには、師匠について相当の期間修行しなければならない。どんなことを教えているのか、受講料を払って参加したいくらいでもあった。
現に操体法東京研究会の指導者養成コースは、15ヶ月間だが、二回も三回も参加する方がいるくらいなのである。更に、彼女は第一分析、第二分析、という言い方の創案者と、第二、第三分析を体系づけたのは三浦先生だということを知らなかったのである。また、三浦先生の本をちゃんと読んでいれば「第一分析、第二分析、第三分析」という呼称は先生の命名ということも知っているはずであるのだが、知らなかったとういうのはお粗末としか言いようがない。
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わかったのは、彼女には他意や悪気はないこと、愛好家の視点から「操体はみんなのものだから、第一分析とか第二分析とか本を読んだから教えていいんだ」と思ったのである。プロだったら訴えられる可能性があることを知っているので、他人が使っている用語を丸ごと使ったりしない。
私は早速返事を書いたところ、無知を詫びますというメールが返ってきた。
「世のため人のため」「操体を伝えたいんです」と、愛好家の方々からよく聞く言葉が並んでいた。誰も伝えるなとかやるなとは言っていないのだが、やはり「第一分析、第二分析」という言葉を無断で使用するのは良くない。勉強もロクにしていないのに人様に教えるのは非常識であるし、何よりも三浦先生の弟子と勘違いされる。
彼女が三浦先生のされていることと全く違ったことを指導していたら、それこそ大問題だ。
本人に悪気がない分タチが悪いのである。というか、このような例は彼女だけではない。「操体法をやっている」という方々が、どこまで橋本哲学を理解しているのだろう。彼女の更なる学び(操体の哲学を含めて)を願ってやまない。
橋本先生は著書の中でこのように書いておられる。
無知ほと恐ろしい罪はないとお釈迦様はおっしゃったそうだが、寒かろうとて座布団くらいの厚さにオシメの外に綿を巻い
てやって、背柱に折目をこしらえて赤ん坊を殺してしまった母親を見たことがある(「からだの設計にミスはない」136ページ)
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師資相承で操体を学んでいる方は、たとえ臨床をしていてもいなくても「橋本先生から操体をお借りしている」と、認識している。なので勝手に好き放題にはしない。
お借りしているのだが「体系化されたものではないから、後進に任せる」という橋本先生の意志を継ぎ、師匠の型を学び(守って型につき)、自分の個性を磨きながら型を洗練させ(破って型へ出て)、守と破を包括し、守りながらも発展させ、師を越える(離れて型を産む)。という、守破離を踏襲しているのである。
「本家ほどチャレンジする」という。例えば、和菓子の老舗や芸事の家元。彼らは先達のやってきたことを、愚直に守っているのではない。老舗であればあるほど、時代背景に沿って、クラシックでありながらも斬新な手法を取り入れている。だから、何代も続くのだ。ロングセラー商品にしても、マイナーチェンジをくり返している。製造法が変わらないものもあるが、それは「匠の腕」に支えられている。
なお「愛好家」の方々はあまりフォーラムにいらっしゃらない。
気持ちはわからないではないが「今までやってきたことが如何に的外れか知るのが怖い」のだと思う。わからないではない。自分がやってきたことが根本から揺らぐのだから。
三浦先生は橋本先生の「きもちよさでよくなる」という呟きによって、それまでやっていた「楽な動きか辛い動きか」といういわゆる第一分析(当時はまだこの名称はない)を手放した。
手放す事、壊すことは怖ろしいかもしれない。しかし、一度壊したものが全く役に立たないのではない。次のステップに進んだ時、別の形で戻ってくるのである。
私自身も三浦先生に師事する際、それまでやっていた事を手放した。手放してみると、第二分析、第三分析を学ぶ過程で手放し、壊したものが丁度いい形で甦ってきたのである。
フォーラムにお運び下さる方々にとっては、未知の楽しみが待っているはずだ。
私達は、真剣に操体に取り組んで下さる方は、例え臨床家でなくてもWelcomeいたします。
2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。
三浦寛 操体人生46年の集大成 [http://www.sotai-miura.com/?p=484:title="操体マンダラ Live
ONLY-ONE 46th Anniversary"]は2012年7月16日(海の日)に開催致します。