東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

 師資相承(ししそうしょう)

師の教えや技芸を受け継いでいくこと。また、師から弟子へ学問や技芸などを引き継いでいくこと。「師資」は師匠・先生。また、師匠と弟子。「師資しし相承あいうく」と訓読する。

東京操体法研究会の定例講習は35年目を迎えます。多くの方々が学んでいきました。この講習は、橋本敬三先生が顧問をされていた、由緒ある講習会で、私達フォーラム実行委員は、ここで学び、学び続けているということに誇りを持っています。

「師匠と弟子」と言うのは簡単ですが、「師匠と弟子」「講師と受講生」とではそのポジションが全く違います。

先日の「守破離」ではないですが、「こういう試みをしてきてみると、稽古というものが茶事の稽古であれ、能仕舞の稽古であれ、編集稽古であれ、歌のお稽古であれ、必ず師弟相承にもとづいた「すがた」や「かたち」をとるべきものであろうことが、よくわかる」松岡正剛 千夜千冊「守破離の思想」1252夜より

操体を編集して「分けて」みましょう。

一つは、一般の方が生活の中に操体を活かすような指導。多くの方が、操体を健康体操として捉えているのはこのカテゴリーです。
もう一つは、私達のように、専門家として操体の臨床を行い、専門家を育成する指導。操体の専門家は一般の愛好家よりはるかに少ないのが特徴です。

丁度見つけました。Wikipediaの「密教」のところです。

一般の大乗仏教顕教)が民衆に向かい広く教義を言葉や文字で説くに対し、密教は極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する点に特徴がある。

「秘密の教え」という意味の表現が用いられる理由としては、顕教が全ての信者に開かれているのに対して、灌頂の儀式を受けた者以外には示してはならないとされた点で「秘密の教え」だともされる。

何だか操体にもあてはまるような気がします。
同じ操体でも、一般の方向けに広く分かりやすくその原理を説く。専門家が師資相承によって(師匠が認めない限り、弟子がいくら相承したと言っても認められません)限られた弟子にその真髄を伝える。

一般の操体愛好家の皆さんから見たら、私達は「秘密主義者」に見えるのかもしれません(笑)。ちゃんと入門して、勉強して、段階を踏んで認められれば、秘伝を受けられるんですけどね。

さて、今回東京操体フォーラム研究会では「第一分析」の実技指導を行います。

橋本敬三先生の時代には、「第一分析、第二分析、第三分析」という言葉はありませんでした。これはフォーラム理事長、三浦寛の命名によります。

★「第2分析」を、操体法東京研究会及び、一般社団法人日本操体指導者協会の講習以外で教えていたりしたら、それは「?」です。100%ニセモノです。他では教えていないし、第二分析を単独で教えている弟子はいませんから。

第1分析というのは「楽か辛いか」を二者択一の運動分析で分析する方法で、橋本敬三先生の時代のやり方です。

ちなみに、橋本先生の本には「書き下ろし」がありません。連載をまとめたものや、随筆をまとめたものです。「操体法の実際」は、橋本先生の著書ではありません。あくまで監修です。私も経験がありますが、監修、というのは「格上げ」のための名前貸しです。橋本先生は当時80歳を越しておられたので、多分「いいよいいよ」と名前を貸したのではないかというのが私の推理です。

また「万病を治せる妙療法」は、恐らく一番売れている操体関係の本ですが、橋本先生が「楽(な動き)と快適感覚は違う」と断言される前のものです。「現代農業」という農業専門誌に連載されたものをまとめたものです。橋本先生もこの時はまだ「楽」と「快」の違いが曖昧だったようです。表記にも楽ときもちよさの混同が見られます。先生ご自身も後に「あれは間違っている」とおっしゃっているのです。
つまり、「楽な動き」から「快適感覚」に変化しているのです。

というか、口では「きもちよく〜」と言いながら、実は「楽な動き」をとおしていたのではないかと。また、よく読んでみると「きもちよく動けばいい」という表記はありますが、「きもちよさを比較対照せよ」とはどこにも書いていないのです。
橋本先生の時代にも「きもちよさ」という動診・操法がありました。

これは、前屈の動診ですが、後屈と比較対照はしていません。たまに「前屈と後屈、やりやすいほうをやる」と言っている場合がありますが、人体の構造上、人間は前屈のほうがやりやすいのは当たり前です。これは解剖学的に考えてもわかるのですが、
「前屈と後屈を比較する」というナンセンスが、未だ操体の世界ではまかり通っています。
写真の動診は、被験者が前屈していますが、相当の確率で、きもちよさを味わうことができます。「一つ一つの動きに快適感覚をききわけ、味わう」という、その後の第二分析の源流とも言えるでしょう。

第一分析が悪いとはいいませんが、第二分析、第三分析の「質の高い次元を越えたきもちよさ」を味わってしまうと、もう戻れません。「知る悲しみ」と、島地勝彦氏も書いておられますが、一度質の高いものに接してしまうと、戻れなくなってしまうのです。

知る悲しみ やっぱり男は死ぬまでロマンティックな愚か者

知る悲しみ やっぱり男は死ぬまでロマンティックな愚か者

しかし、身体運動の法則(からだの使い方、動かし方)に則って行うという、操体の作法の点では基本中の基本です。今回、第一分析の指導をしようと思ったのは、あまりにも操体が野放し状態になっていることに、危機感を感じたせいもあります。

第1分析でも、進化バージョン(介助法、言葉の誘導を含む)をご紹介する予定です。第一分析、第二分析にかかわらず、共通しているのは「操者のからだの使い方」「適切な介助法」「適切な言葉の誘導」「脱力に導く話法」脱力後の適切な支え、が必要です。実際に被験者を相手にすると分かりますが、被験者は操者の言葉の誘導通りに動くとともに、言葉の誘導を誤るとまったく違った動きをしたりします。つまり、ベストな誘導語があります。

「脱力してくれない」「動いてくれない」「感覚をききわけてくれない」というのは、殆ど操者の誘導語に問題があります。これらを解決すれば、動診操法をスムースにすすめることができるのです。

■仏法に於ては正法が混乱をしないやうに相承の道を立て明らかにされてあるのであります。それで此の相承とは相ひ承けるといふことで師の道をその通り承け継ぐことであります。それで此れを師資相承と申します。既に師の道を承け継ぐのでありますから必らず師の証明がなければなりません。弟子が勝手に承継したといってもそれは相承ではないのであります。
また世間では仏書を読んで悟ったといって師弟といふことを考へない人がありますが、それは仏法の正しい道ではないのであります。昔経巻相承といふことをいって法華経を読んで仏法を相承したと主張した顕本法華宗の祖である日什といふ人がありますが、此れは自分勝手にいふことで法華経の中には日什といふ人に相承したといふ証明はないのであります。仏法に於ては師資相承がなければいけないのであります。また信心相承などといって信心を以て相承したなどといふ人がありますが、信心は仏法の基盤でありますが、相承はその上に於ける仏法の承継の問題であります。
(第65世『日淳上人全集』1442)より
仏教の「師資相承」を説明したもの。

いつの世も、勝手に継承したという弟子や、本を読めば師匠はいらないとか、信心を以て受け継いだ(操体だったら、操体が好きだから受け継いだ、みたいな)という人がいたようです。

2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

三浦寛 操体人生46年の集大成 [http://www.sotai-miura.com/?p=484:title="操体マンダラ 三浦寛 Live
ONLY-ONE 46th Anniversary"]は2012年7月16日(海の日)に開催致します。