東京操体フォーラム 実行委員ブログ

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橋本敬三〜誕生〜

橋本敬三師は言わずと知れた操体法の創始者であり、来年でお亡くなりになって20年が来ます。よく考えれば、私が始めて仙台の橋本先生の墓参に行ったのが先生13回忌時なので、そうだよなぁなどと感慨にふけっておりました。
最近、先生の書籍を改めて読むと、先生の名前で出版されている書籍は幾つもありますが、多分、我々臨床家が一番目にしているのが『生体の歪みを正す』だと思います。三浦先生の持っていらっしゃる“生体の歪みを正す”に至ってはホントにボロボロで、読み込んでいらっしゃるのがパッと見ても分かる状態で、作者冥利に尽きるのではと思えます。
この『生体の歪みを正す』を改めて見ていて私が今回またまた興味を引かれたのが、橋本師の波瀾万丈の人生です。“生体の歪みを正す”の第四部が自伝・随想・雑感となっており、読んでいて気付くのは時代や書いてあることがあちこちへと結構飛んでいたり、纏まりにくいところもあったので、再度、自分の中で検証し、見えにくい部分は想像も動員しつつ辿ってみたいと思います。

橋本敬三先生は明治30年(1897年)に福島市で誕生されました。
明治30年と言えばどんな時代だったかと言えば、時の総理大臣は松方正義という薩長閥(薩摩出身)に属し、勤王志士活動が無く元老・公爵にまでなった珍しい経歴の方です。政権も短命で閣内分裂が原因での党壊であり、財政以外は余り得意ではなかった方のようです。国もこの時期、より教育に力を入れ出し京都帝国大学、岩倉鉄道学校、海軍軍医学校など、学校の設置や開校が多く見受けられます。国会図書館帝国図書館、京都帝国博物館開館など、文化面でも徐々に充実して来だした感じがあります。
橋本師が生まれた福島市では福島町立福島高等女学校(現在の福島県立橘高等学校)、福島町立福島商業補習学校(現在の福島県立福島商業高等学校)などが創立されたようです。
明治30年生まれの他の有名人と言えば、作家先生が多く、波瀾万丈という言葉がピッタリな人生を歩まれた、代表作品「おはん」などで有名な宇野千代先生。宇野先生に関して言えば、橋本師も96歳と長命でしたが、宇野先生は更に長命で満98歳までご存命でした。男性では鞍馬天狗天皇の世紀で有名な大佛次郎(おさらぎじろう)先生もこの年に誕生されています。

明治30年の日本の時代背景はと考えると、二年前に日清戦争を終結させ、当時の日本が国のスローガンとしていた脱亜入欧(だつあにゅうおう)』の第一歩を踏み出した時期であり、小さな島国が世界の仲間入りをしようと精一杯、国全体が背伸びをして国際社会の仲間入りに躍起になっていた時期と言えます。
しかも、日清戦争に勝ったお陰?で南下を目指していたロシアとの緊張も益々高まり、東洋の小さな島国が来たるべき大ロシアとの戦いに向け着々と準備を行い、国として高揚感と妙な自信を持ち始めて来た微妙な頃ですね。

人間の一生って、生きて来た時代によって大きく変わるものです。私の敬愛する高杉晋作先生が幕末のあの時代の長州藩じゃなかったら、身体の弱いワガママな奴で終わっていたでしょうし、義経がひょっとして戦国時代にいたらとか、全ては生まれ落ちた時代と天恵によって、後世に名を残すかどうかが決まってしまいます。
そ〜考えると、橋本敬三先生は日本が近代国家に生まれ変わろうと必死でもがいている時代に生まれ落ちたことがどうだったか?を考えると、やはり良かった様に感じます。その一つの理由としては、多分現在では中々お目にかかれないであろうと思われる、市井の名人達が多数存在していたことです。
橋本先生が本格的に民間療法を研究し始めた昭和初期と言えば、操体法の源流とも言われている“正體術”の高橋氏や野口整体の野口氏など、民間療法伝説の名人達もリアルタイムで存在していた時代です。戦国期の古(いにしえ)の武道医術が源流であるとも言われる民間療法はこの時期、未だ使える方も多数存在し、西洋医学以上に町人の生活に当たり前の様に溶け込んでいたのです。そして、その様な時代に生きていらっしゃった橋本師のやじ馬心が、後の橋本理論の土台となっていくわけです。