少年期に於いて男の子が最も影響を受けるのは誰だろうか?直接的には身近な「父親」であろうか。父親が消防士で、或いは警察官だったからという理由で、自分もその道へと進んでいく子も非常に多い。これには逆も有り、父親が教師だったから自分は絶対に教師にだけはならない!と言う子も居る。寝食を共にするのは良悪共に目にするが故にバランスが非常に難しく、憧れの対象でも有り、反面教師にもなる微妙な関係が思春期の親子関係には存在する。
一方で、血縁関係にありながら、憧れや目標になり、影響力がとても大きい存在として挙げられるのが、『従兄弟(いとこ)』である。血が繋がりながらも日常的には一緒に行動することもなく、盆や正月に会うと妙に大人びて見えて、何となく憧れてしまう。その頃で言えば会いに行けるアイドル的存在かもしれない。
私自身も考えてみると、興味も無かったギターを始めたり、それまで聞いたことがなかった様なミュージシャンの歌をカセットに入れたりと、考えてみれば今現在、私が趣味としてやっていることの大半は従兄弟の影響かもしれない。そう思うと、思春期における従兄弟は人生におけるキーマンになり得る存在なのかもしれない。
橋本師もどうやら、その思春期の洗礼を受けた一人の様で、従兄弟の影響を多大に受け、従兄弟が居なければひょっとしたら、『操体法』は誕生していなかったかもしれない。
それを窺える一節が本の中にもある。ご存じの通り、橋本師は“医師”という職業を選択した訳ですが、当初は医師ではなく、『造船家』になるのが夢だったようです。
その動機は至ってシンプルで当時、目白で開業医をしていた従兄弟が橋本少年に向かって「オレは実は造船家になりたかったのだ。造船は面白いぞ、世界の海を人や物資をのせて走る船、それを造る技術は最高だ。昔は帆前船、今は蒸気船だ。最高の学問を応用してつくる船、でもオレは諦めて医者になってしまった」と目を輝かせて語る従兄弟。
少年橋本師がこの話を聞きながら、心は大海原へと走り出していたのは容易に想像出来ます。
この従兄弟の言葉が橋本少年の心に一筋の光明を照らし出しました。その後、中学入試の面接の際、将来何になりたいかを問われた時に、迷わず「造船家になります!」と言い切ったそうです。その位の強い思いで目標を定めた橋本師に再度転機が訪れるのは、中学三年生位の時でした。それは学年が進むにつれて、数学がカラキシ駄目なことに気付いたそうです。造船は専門数学が必要となる職業ジャンルなのですが、それが苦手だというのは致命的でした。
そんな、半ば路頭に迷いそうな橋本師に手を差し伸べたのはまたしても、従兄弟でした。何だか将来の道に迷っている橋本少年を見て一言、「医者はまぁ、飯の食いっぱぐれはない、人からも尊敬され、悩める病人からは頼りにされて、お役にも立てるぞ」やっぱり従兄弟の影響力は大だ、橋本少年はあっさりと前言撤回、「そうか!そんならオレも医者にでもなるか」と決心したそうです。従兄弟に感謝です。
そこで橋本少年は学校の選択として、医専では無く帝国医科大学を目指すべく、高等学校の三部(医学予科)を受験しました。
ここでも大きな障害となったのが“数学”でした。厳しい競争の中、どうやら数学で点数を取れないとどうにもならないことが分かりました。そして気が付けば二浪していたのです。
当時、三部三年という言葉があって、三浪してでも入れれば良い方だという意味だということ。さすがに橋本少年、一念発起して数学を克服するべく、朝から晩までワラ半紙を半切りしたものに教科書を一頁から全部やり直したそうです。
やり出すとあんなに難しいと思っていた数学にも一定の型があり、それが分かれば大丈夫だということを悟った。さすが、後年、様々な手技療法をみていくうちに、その中に一定の法則があることを見い出し、『操体法』を体系付けた片鱗がこの頃から見え隠れしている。
当時の高校受験期は七月であり、医専は三月。従兄弟の家に泊まって小説なんぞを読みながら、慶応の第一回募集と、東京でも受験可能だった新潟医専を受験しました。
結果は両方共に二十番近くで合格しました。で、三部を受けるのも今更馬鹿らしい、予科が二年ある慶応より四年で切り上げの効く新潟を選択したのです。
と言っても、結局は医者になるのが早いと思って選択した割には、卒業後も研究生活が楽しそうだからと、生理学教室に飛び込んでしまい、四年も無駄?にしてしまったことを考えると、意外に行き当たりばったり、楽しそうなもの、人から誘われるものにフラフラとついて行ってしまう少年から青年期の橋本師の姿が見て取れます。
でも、何だか文章だけを読んでいると、厳しい時代と生活の中でも、未だ見ぬ何かに心躍らせ、光明を見いだそうとする青春時代がある様な気がします。
この後、臨床医になってからの激動期を考えると、チョット箸休めの青春時代ってところでしょうか。