東京操体フォーラム 実行委員ブログ

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橋本敬三〜少年期〜青年期〜

少年期から青年期への橋本師を語る上において、もう一つのキーワードとなるのが、『苦悩』です。その一端が垣間見えるのが、旧制中学四年時に「餓え渇く」の演題で弁論大会において一等をとられていることです。
旧制中学四年と言えば、今だと高一位でしょうか。このタイトルから読み取れるのは自分の内にある制御出来ない怪物にもがき苦しむ思春期の姿でしょうか。これは橋本師の言葉を借りれば“自己嫌悪の劣等感”に苛まれていた時期だったようです。
そんな橋本師の苦悩の根源にあるのは、キリスト教の教えでした。師にとって教えの影響は絶大であり、現実と教えの中で夜も眠れず身をよじっている姿が想像出来、その苦悩の深さが感じられます。
本の中でも、飯も喉につかえて通らぬ日が度々であったと。自己批判や及落の不安や恋愛のことなど二重三重に苦しみを味わい、その余りの苦悩に宗教などと無関係に平気でやりたいことをやっている人々がうらやましかったと言っています。現在の平成時代の高校生達がこの様な話を聞けば、理解に苦しむだろうと思います。草食系などと言われる若者達が増えている昨今、当時の橋本師からすれば、その方が理解に苦しむかもしれません。

この様な苦悩の日々から橋本師が解放されたのは、医学生時代の後半に達した二十三歳の或る日だったとあります。その無間地獄の様な苦しみから解放してくれたのは、全く無名の牧師であった『平野栄太郎氏』からエペソ書の一説「世の創(はじめ)の前より我らをキリストのうちに選び・・・愛をもて己が子となさん事を定め給えり・・・」この言葉で目が醒めたと言います。
いわゆる橋本哲学を語る上において絶対に外せない、『救いと報い』です。
この『救いと報い』の区別とは「救い」は絶対であり、「報い」は相対であるということ。橋本師は「救い」とは絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何ものも覆すことが出来ない久遠の事実であると言われています。
我々は生まれながらにして既に救われており、それは絶対である、その一方で自らの行いに対してはその結果に対しての相対的評価があり、善を行えば善の、悪意を持って行えばそれに対しての「報い」が生じると。
全ては自己責任であり、それに対しての相対評価が「報い」であると説いています。

ふと、この青年期の橋本師を苦悩から救った無名の牧師、「平野栄太郎氏」とはどの様な方だったのだろうかと調べてみると、平野栄太郎牧師は、現在は合併して青森市になってしまいましたが、旧浪岡村、茶屋町にある旧家の出身で、
無名どころか、浪岡村の“平野家”は「弘前藩庁日記」にも登場する位の名家で、歴代当主の中で、浪岡村の庄屋や、浪岡組の手代となって藩行政に協力したり、幕府の巡見使が浪岡の田地・年貢の調査に来た際に宿泊の便を図ったようです。文久元年(1861)9月25日の「弘前藩庁日記」によると、浪岡村の油屋平野屋清助が菜種油の買い入れをするとの商活動が記されています。総本家平喜(屋号:ヒラキ)では、代々農商を営んで繁栄したとの記録もある
そんな平野一族の中で、栄太郎氏は明治3年4月28日生まれ、旅館業を営んで屋号は「ヒラハン」と呼ばれ、極めて恵まれた家庭で育った様です。プリマス・ブレスレン派に所属した独創的信仰と反骨精神旺盛な人物だった様で、その後、藤崎教会から千葉県にあるキリスト教会に移り、更に岩手県盛岡市内の教会に移って活動して昭和21年(1946年)6月1日、盛岡教会の自宅にて亡くなられています。
平野氏の活動としてハッキリと記録が残っているのは、浪岡におけるキリスト教伝道の最初の人物としてです。明治22年(1889年)1月の中旬であることが当時の新聞記事に残っています。1月18日付の『東奥日報』によると、基督教(キリスト教)演説会が浪岡村で開催され演者として平野栄太郎氏が「日本の振はざる所以」について語ったとあります。ですが、聴衆はあまり感動しなかったと記事は伝えています。

橋本師が平野氏の説教を聞いたのは、年代的に見ても平野氏50代前半、牧師として充実していた時期の出会いだったと思われます。
兎にも角にも平野氏との出会いによって、橋本師の人生観は180°変わったわけです。それまで神経質で潔癖だったのが、非常に呑気ルーズになり、性格は一変、お気楽者、それ以後は取り越し苦労などで悩んだことは無いと言われています。ひょっとして平野氏との出会いが無ければ、苦悩から神に仕える立場に成っていたかもしれず、人の人生は分からないと改めて思います。
この平野氏との出会いから大きく橋本師の生き方、考え方、人生は変わって行くのです。