東京操体フォーラム 実行委員ブログ

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橋本敬三〜臨床医編〜

橋本師は家庭の事情で新潟医専の学生時代に若くして結婚、卒業後、兵役に服している頃にご長男が誕生されたようです。前回も書いた様に医専卒業後も直ぐに臨床医になること無く、研究に没頭します。当然のことながら収入は少なく、新築しがけの家に住み、他の人から見れば金持ちの息子だと思われていたことかと、ボヤいていらっしゃいます。
風呂桶はあっても燃料代がかかるからと奥様は実家に赤ん坊を連れて、もらい湯に通う日々だったそうです。
切り詰めて暮らしても75円の月給で20円の家賃だったそうで、昭和初期の貨幣価値で換算すると、5円が約10,000円位ですので、150,000円だった計算になります。150,00円の給料で家賃が40,000円だと、やはりキツイですね・・・
学生時代に買い入れた本を抱えて古本屋に行ったりされた様で、後に橋本師の後を追いかけ外科医になられた長男の信先生にも三十銭のセルロイドの金魚玩具を一匹買ってあげたきり、奥様の作られた弁当を持って研究所に通い、好物のソバ屋も素通りだったそうです。

そんな生活をおくられていた橋本師に転機が訪れたのは、同級生の親友が数人函館へ行って、函館市内の私立病院勤務で結構な生活をしているという。「橋本、お前も来いよ!」としきりに言われ、しかも函館市内では結構流行っている病院で設備もかなり揃っており、給料は何と250円(現在の500,000円)、しかもボーナスは二ヶ月分と、今のギリギリな生活から比べたら、とんでもなく良い条件、大正末期の話しです。
今迄、臨床経験の無い20代後半の青年医師、橋本師が期待と不安に胸を膨らませて函館生活をおくっている奮闘ぶりが何だか想像出来て、ワクワクします。
ですが、さすが波瀾万丈運を持っている橋本師、勤めていた病院の院長が勤務開始から三ヶ月目に二号さんを連れて、樺太(今のサハリン)へ駆け落ちしてしまったそうです。
最初は知らずに勤めていたそうですが、世間の噂も立って臨床未経験の若造医者でもあり、親族会議の結果病院は閉鎖となったそうです。就職僅か四ヶ月で閉院失業という絵に描いた様な結果となってしまいました。年末だったそうで、ボーナスは一ヶ月分が手に入ったのと、行路病院の嘱託もされていたので、そちらからも150円入るとのこと。当分は困ることもないと、そちらに毎日通っていたそうです。何だか大変な状況にもかかわらず、楽しんでいる姿が想像出来るのも、橋本師ならではと妙に感動してしまいます。

そんなブラブラしている頃に、函館病院長の爾見(しかみ)博士から声がかかり、函館市の学校衛生技師の欠員があるから助役に会ってみろと言われ、行ってみると二年前から専任技師二人分の予算が取ってあるが、なり手が無いとのこと。年俸二千円でどうか?と声がかかるが、以前よりも少ないのなら、嫌なこったと言ったら千円UPの三千円で来てくれと言われ、行くことにしたそうです(笑)。
函館には当時、小学校が二十数校あり、三分の一は三階建ての鉄筋コンクリートだったそうです。教育課に配属になった橋本師は毎日、各校を順に廻り、衛生講話や観察指導を行ったそうです。この間に橋本師が行ったのは「学校防塵」でした。ウマが合った校長先生と共に半年位色々試し、床油を薄く、濡れ手拭いを堅く絞って拭いた程度に塗布することによって、掃けば埃はコロコロと固まり、飛ばず、床も衣服も汚さずに出来ることを確認し、解決したそうです。この時期、橋本師は全市児童の虫歯調査統計を取ったり、成績不良児の身体検査など色々な統計や調査を行っていたようです。
そんな時期が暫く続いた頃、慈恵院という社団法人が実費診療を開始するということで、東京から啄木ゆかりのクリスチャンの友人が呼ばれて来たそうです。例の行路病院も接収して病院をやるというのですが、四方八方手を尽くしても誰も来ない状況に見かねて、橋本師が手助けをすることとなったようです。
まぁ、普通なら安定収入にあぐらをかいて、友人の苦労は見て見ぬふりなのでしょうが、キリスト教という同じ思想を持つ友人の苦労は見過ごせず、この慈恵院で外科部門を五年間受け持つこととなるのです。
ここまでが『民間療法』に傾倒していく前の橋本師の姿であり、何とも人間臭く、多分に情緒的、直情的雰囲気を漂わせており、臨床医として研究者として苦悩しながらも、どことなく飄々とし、とかくお堅いアカデミーの中でフラフラと漂っている感じが、何だか虎視眈々と次の順番を待っているいたずらっ子の様な雰囲気もあり、やはり普通のお医者様に比べると異質な感じがします。

でも、一つだけハッキリ言えるのが、橋本師が医学界の賢威やプライドにしがみつかず、あくまでも『患者』の方にシッカリと目を向けていたからこそ、この後、『民間療法』の素晴らしさに気付き、それを貪欲に吸収し、操体法を考案するに至ったのだと言えます。
平野氏の教えにより『救いと報い』を知ることで呑気者になったと自身でも言われていた橋本師だったから、何にでも興味を持ち身体を診ることをし、レーベンス・テーマとして捉えていたからこそ、今の我々があるのだと、またまた改めて感じることが出来ました。